「裏切り」は人間性とセットになっているものであり
イスカリオテのユダ(古代ギリシア語: Ἰούδας ὁ Ἰσκαριώτης または Ἰούδας Ἰσκαριώθ,
ヘブライ語: יהודה איש-קריות Yehûdâh ʾΚ-Qǝriyyôt)は
、新約聖書の4つの福音書、使徒言行録に登場するイエスの弟子のうち特に選ばれた十二人、
いわゆる使徒の一人である。
「イスカリオテ」はヘブライ語: איש קריות イシュ・ケリヨト「ケリヨトの人」に
由来すると考えられ(ケリヨトはユダヤ地方の村の名)、
ユダ(יהודה Yehûdâh, イェフーダー)とは「ヤハウェに感謝する」という意味。
ほかの弟子はガリラヤ出身であったのに対し、
ユダの出身はガリラヤではないとされている。
イエスを裏切ったことから、裏切り者の代名詞として扱われることが多い。
なお、ユダは12番目の使徒であり、
彼が裏切りの末死んだためにマティアが新しい12番目の使徒となったのであって、
イスカリオテのユダを第13使徒とするのは誤りである。
使徒ユダ(タダイ)とは別人である。
また、新約聖書の『ユダの手紙』の著者も別人である。
『ユダの福音書』などの外典にも現れる。
イエス一行の会計係を任されており、
不正を行う事が可能な立場にいた
ユダがいつ弟子になったかという記述は福音書にはみられない。『ヨハネによる福音書』は「イスカリオテのシモンの子ユダ」と紹介している。
マタイによる福音書ではユダは金目当てで祭司長たちにイエスの引き渡しを持ちかけ、報酬として30シェケルを貰う約束をとりつけている。『ヨハネによる福音書』では高価な香油をイエスの足にぬったマリアを非難する。そこに続けて彼が使徒たちの会計を任されながら、不正を行っていたと記されている。
複数の福音書の最後の晩餐の場面ではイエスに裏切りを予告され、『マルコによる福音書』では「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とまでイエスに言われている。
ユダは祭司長たちと群衆をイエスのもとに案内し、接吻することでイエスを示して引き渡した。
その後、『マタイ福音書』では、ユダは自らの行いを悔いて、祭司長たちから受け取った銀貨を神殿に投げ込み、首を吊って自殺したことになっている 。
『使徒言行録』では、ユダは裏切りで得た金で買った土地に真っ逆様に落ちて、内臓がすべて飛び出して死んだことになっている。
福音書中でイエスの側近の不信心の逸話は、弟子たちの離反、ペトロの否認、疑い深いトマス[、逃げ去った女たちなど事欠かず、中でもユダの裏切りは衝撃的だが、これには不可解な点がある。
- イエスは裏切りを予知していた。ならばなぜ回避できなかったのか?
- ユダはいつから背信の心を持ったのか?
- 裏切りの動機は何か? そもそも彼の自由意志によるものか?
多くの神学者、哲学家がこの問題に取り組んで来た。
一例を挙げれば、スイスの神学者のカール・バルトは、ユダはイエスを十字架に架けキリストにする重要な役割を果たした人物であり、「神の使わした者」と考えた。この考えは突飛なものではない。たとえば『ヨハネによる福音書』のイエスは最初から裏切者が誰であるかを知っていた[14]。しかし最終的には最後の晩餐の折に裏切りを予告したのち、
イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。— 13:26-27、新共同訳
イエスは起こるべきことをすべて知っており、むしろ進んでユダに指図しているようにすら見える。共観福音書が伝える「ユダの接吻」も、『ヨハネによる福音書』のイエスはそれを受けず、自ら進み出て名乗った。
すでに2世紀後半のキリスト教父文書には、異端の説として「イエスを裏切ったユダが実はイエス・キリストの弟子の中の他の誰よりも真理を授かっており、裏切りの神秘を達成した」との考えがあったことを告げている。
wikipediaより抜粋