すべてのみちはここに

もう追いかけないよ 
宝物は 
いつもここにある

究極の旅

2019-09-18 | サンガ
これからあめつちWORKSで実家の工房を使うので
最近せっせと片付けに通ってた。
ついでにガラクタ置き場になっていた私の部屋も。


ガラクタの中から
12年前の私が書いた手記(紙切れ)が出てきて
読んでみたら
その内容が
今の私が書いてることと
おんなじやん!って思った

なんだ、ぜんぜん成長してないやん! 

だけど、冷静に読んでみたら
使ってる言葉は同じなんだけど
とても硬い
アタマで書いてるのがわかる。
こうであるべき
こうであるはずー!って


その頃
道を見つけて歩き出したけども

きっとこの方向にちがいない!と確信はあるのだけども

まだそれが「情報」でしかなくて

それを知りたい!
それが解りたい!
そこへ行きたい!
っていう
強烈な憧れがあるのがわかる

手記のほとんどが
きっとどこかで読んだりして
聞きかじったものかもしれない
その言葉が指すものが
どういうことなのかは
肚におちていなかった


そう書くと
じゃ、今はわかってんのか?ってかんじだけど
知れば知るほど
わかるとかわかったとか言えるものではなくて
言葉は真理を表すことは不可能で
ただそれを生きていくのみ・ということだけで
なにをも持ち運べるものなんて、ない。



そういうわけで
私のこの“究極の旅”は
12年前にはもう始まっていたんだなと。

Oshoの「究極の旅」はすごい本だけど
この頃はOshoも阿部敏郎さんのブログも禅も老子も知らなかったし
釈迦もキリストもなに言ってんのかチンプンカンプンだったな




こういうことに強烈に惹かれてたけど
変な人って思われるのがこわいから
このことについて話せる相手は1人もいなかったし
今みたいにブログに書くなんて、
その頃の私が知ったらきっとおったまげるな



12年前の手記のなかで
一枚だけ、少し削ぎ落されつつある文章があったので
載せておこう
とっても硬くて読みにくいけど
私の体を通って出てきた言葉たちだと思うから。
一回書いて消してるところもそのままに




********


内なる私の中心 = 魂

魂の私が対象を発見したよろこびに振動する。
対象と共振している。(=心が動く)
その対象は私の一部であるということを知る。
共振する対象の魂を言語化することは不可能である。
言語化することは硬直した枠にはめこむようなことである。
言語化しようとせず、ただ感じればいいのである。


内なる私(魂の私)は、中心に中心にと向かう方向性と、
外へ無限に広がる方向性とのたえまない運動を繰り返す。
また時にそれは同時に起こる。

対象に固定した認識を持ったり、対象を所有しようとしたとたん
その運動は止まってしまう。
すると、私から見る対象は活きなくなる。
対象が活きていないと 私もまた活かされない。

よって、対象に執着するということは、あるいは対象に固定観念を持つということは
私の魂の、『活(生)きようとする力』を圧迫することになる。

対象を「発見」できたことが喜びなのである。
それはすでに私の一部なのだから。
それは私を発見したことでもあるのだから。

表層の私(=感情)、対象の表層、に とらわれてはいけない。
魂が喜ぶことをしよう。

'07・8/13 (7月朔日)






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