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最近図書館から本を借りてくることが多くなった。(他にも読む本はいっぱいあるのだが)
先日も宮城の歴史の箇所から「よみがえるふるさとの歴史」シリーズの1、「荒浜湊のにぎわい」を借りてきた。
この本の副題は「東廻り海運と阿武隈川舟運の結節点」という。
ここに言う「荒浜湊」というのは、今の亘理町の阿武隈川河口にあった港である。
副題にもあるように、荒浜は阿武隈川舟運と江戸などに行く海運の中継地として、江戸時代から明治の初めまで
賑わっていたようである。
運ばれていたのは、阿武隈川舟運を使って運ばれた福島盆地周辺の米であった。もちろん江戸方面からくる物もあり、
物が運ばれれば人の交流もあった。
荒浜が注目を浴びるきっかけとなったのは、幕府領の年貢米の「城米輸送」でした。
寛文四年(1664年) 米沢藩主上杉綱勝が急死したことにより、米沢藩領三十万石のうち、陸奥国の信夫郡と伊達郡、
そして出羽国屋代郷の一部、合計十五万石が没収されることになり、これらの地域は幕府領となりました。
新たに幕府領となった地域は内陸に位置しているため、信夫郡、伊達郡を通っている阿武隈川を利用し、舟運を利用して
太平洋の海運につなぐ方法が採られました。
城米はまず阿武隈川の河岸へ集められ、川船で荒浜まで運び、そこで海船に積み替え、海路で江戸方面へ向かいました。
このため、荒浜は城米輸送の基地として重要視されました。
河村瑞賢の変革
河村瑞賢は江戸初期の豪商で、伊勢生まれです。寛文十一年(1671年) 、瑞賢は城米輸送を指揮することになりました。
瑞賢により城米輸送は、それまでの銚子を経由する方法から房総半島沖を回って江戸まで直接海路で運ぶ経路を選択しました。
その経路は、荒浜→平潟→那珂湊→銚子→小湊→江戸でした。これが東廻り海路で、翌寛文十二年、瑞賢は出羽国酒田から江戸までの
西廻り航路を使った城米輸送を成功させています。
幕府代官所による城米輸送
瑞賢指揮による城米輸送は1年限りで、翌年からは幕府代官所が行うことになり、以降福島盆地周辺を支配する代官、国領半兵衛が
担当することになりました。航路上の要所には「城米浦役人」という役職が設けられ、それには地元の在地有力者が任命されること
になりました。荒浜の場合、武者惣右衛門が任命され、以後代々武者家が城米浦役人を務めました。
物流拠点としての荒浜
「人」の交流
事故対応と漂流体験
おわりに
明治初期の活況
幕藩体制が終わって城米輸送や藩米輸送は無くなりましたが、民間商品輸送が活発に行われるようになりました。
瀬戸内海産の塩、魚粕や鶏糞など肥料が多く取引されていました。
鉄道開通による変化
しかし、明治20年には仙台まで鉄道が開通、これにより沿線地域に大きな変化が起こりました。
福島盆地周辺では鉄道による輸送が行われるようになりました。これにより阿武隈川舟運は打撃をうけ、衰退していきます。
荒浜に集積する物量も減少し、その影響力は衰退してゆきます。
以上は、冊子からの抜粋です。途中一部省略しました。
いずれにしろ、阿武隈川を介して福島盆地と宮城県の海岸部は交流がありました。
福島生まれで、福島盆地にもなじみの土地勘があるものとして、阿武隈舟運は興味が尽きないものがあります。
これからも地元の歴史学びを続けていきたいと思います。
最後に、私が以前に撮った阿武隈川河口の写真がありましたので載せておきます。(2010年撮影で、震災前のものです)
こちら側は岩沼市、向こうが亘理町です。左側波の見えるのが太平洋、右側が阿武隈川で、
右上のほうが荒浜があったところです。
これは貞山掘りです。今はこんな風景はなくなりました、
阿武隈川と貞山掘りの間の関門です。いまは壊れてありません。作り直したかもしれません。
これも貞山掘りです。
いずれも今は風景が変わっているはずです。
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