気の向くままに

山、花、人生を讃える

「肉体を離れて生きる」

2011年08月13日 | 信仰

もう10年以上も前の話だが、思い出したので、こんなこともあったということで、ここに書いておくことにする。

まだ今より若かった頃のわたしは「死後の生」を頭では信じていたのだが、いざ先祖供養という段になると、はたしてご先祖は聞いてくれているだろうかと頼りない気がしていた。それで、その頃は聖経読誦も全く気ままで、したりしなかったり、大方はしない方が多かった。そしてたまにしたりするときには、「聞いてくれているとハッキリわかれば、先祖供養も一生懸命するのに」と思ったりしていたものである。

ところが、何かの加減でめずらしく熱心に先祖供養を続けていたある日のこと、気がつくとロウソクのてっぺんに溶けたロウで輪っぱができていた。そして、「線香の煙が輪を描いたら先祖が喜んでいる」という話を聞いたことがあったので、「きっと先祖が喜んでくれているシルシに違いない」と喜んで、熱心に先祖供養を続けた。すると、頻繁に輪ができはじめ、炎が揺らめくと、すぐ目がロウソクに行くようになり、ついにその輪ができる瞬間を目にした。

それはロウが幅2ミリほどの平べったい形で、火炎にあおられるようにして上に向かってニョキニョキと伸びあがり、1センチほど伸びたところで今度は自重でそり返るようにして下へ垂れさがり、再びロウソク本体にくっついて、コーヒーカップの取っ手のような輪ができるというものであった。

出来た後の形だけを見ている時には、そのような輪ができるのが不思議だったが、出来つつある過程を見てしまうと、一部のロウが炎にあおられて出来る物理現象のようにも思えてくる。しかし、めったに見られないものが、この一時期だけは頻繁に出来たので、単純に物理現象とも言えない気がしていた。それで、先祖が喜んでいるのだという気持ちと、それとも物理現象にすぎないのか、本当はどっちだろうと半信半疑の気持ちでいた。

ところが、何日かしたある日のこと、やはり炎が揺らめいたので、いつものようにロウソクに目をやると、今度はたくさんのロウが一気に流れ落ちる瞬間だった。
それで、すぐさまロウソク立てを手に持って目に近付けて見ると、観世音菩薩ができていたので、これには非常に驚いた。「観世音菩薩に見える」というようなあいまいなものではなく、一目で観世音菩薩と分かるぐらい姿形のハッキリしたもので、家内が高校の修学旅行の時に京都で買ったという木彫りの観世音菩薩を仏壇に置いていたのだが、それとそっくり同じ形をしていたので、もう疑いようもなく、わたしは完全に「ご先祖様が喜んでくれているのだ」と信じるようになった。同時に、こんなわたしが読んでも、このような功徳が現われてくれる『甘露の法雨』がしみじみ有難くなったのであった。

ちなみにその観世音菩薩は背丈が4センチほどの大きさで、ロウソクは1時間以内には燃え尽きる大きさのものだったので、そのような小さいロウソクからそれだけの背丈の観世音菩薩ができるほど、一気にロウが流れるのは不思議だった。

○されど汝ら、
 ついに生命は肉体の繭(まゆ)を必要とせざる時至らん。
 かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。
 これをもって人間の死となすなかれ。
 人間の本体は生命なるが故に常に死することあらざるなり。  (生長の家 聖経『甘露の法雨』より)


○21世紀の死の定義は変わってきますよ。
 「死とは、肉体を離れて生きるということである。」     (飯田史彦 『生きがいの創造』より)

コメント
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