おはようございます。
はじめてコメントさせていただきます。
感動的なお別れに思わずホロリとさせられました。
素晴らしい大往生ですね。
涙が出なかったのは、きっとご主人様が陰で支えて下さっていたからではないかと思いましたが、
それとも、お別れの悲しさに涙も出なかったのでしょうか。
いずれにしても、お寂しいことと思いますが、
どうぞ、お元気で過ごされますよう、
そして、ご主人様のご冥福をお祈り申し上げます。
以上は、ある方のブログを読んで、言葉をかけたくなって書いたものですが、
このような時に初めてコメントするのも変に思われたので、そのままになっていたものです。
2週間ほど前、わたしの兄嫁が他界して、兄はすっかり気落ちして元気をなくしていますが、
そんな兄を見ていると、わたしは家内より先に逝くと思っていたが、自分が後になるかもしれないと、
ふと、そんな思いも湧いてくるようになりました。
人間は、決して死なない。それは間違いないと思っていますが、
しかし、やはりその姿が目に見えなくなれば、どうしようもなく淋しいのかもしれませんね。
何処にも姿は見えなくなるし、話をしたくても、会話をすることも出来なくなるのだから。
先日、『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)の抜き書きしたのを読んでいたら、死についてこんなふうに書かれている1節がありました。
○どの瞬間も始まったとたんに終わる。それがわからないと、その瞬間のどこがこの上なく大切なのかわからず、平凡なひとときにしか思えないだろう。どんな交流も「始まりが始まった瞬間」に「終わりが始まる」。そのことをよく考え、深く理解して初めて、すべての瞬間の、そして人生そのものの貴重さが充分にわかるだろう。≪中略≫
これが最後だと思えば、誰かと一緒のひとときが輝くだろう。どの瞬間も、経験するのはこれが最後だと思えば、はかり知れないほど重いものになるだろう。死から目を背けているから、自分自身の生命を考えなくなるのだよ。
素晴らしい1節だと思いますが、
死という別れの寂しさは、経験した者にしかわからないと思いますが、しかし、また会える時もあるに違いないと思う。
枯葉となって散り、また、若葉となって萌え出す。そして、恋愛し、結婚し、我が子の誕生を見て喜び、老いて孫を抱きてまた歓ぶ。
そして、また散る。
そんな一生を繰り返しながら、樹齢何百年という桜のようになっていくとしたら、その寂しさも、意義あるものに違いないと思えるし、その相方も、より大切な人に思えて来たりもする。
思い出しましたが、飯田史彦著『生きがいの創造』という本の中には、夫に先立たれて、いつまでも意気消沈している妻を見かねて、あの世から夫が話しかけるという実話が載っていました。記憶だからその通りではないが、凡そこのような会話でした。
夫:こら、いつまでも寂しがってばかりいては駄目だ!
妻:ふ~ん、あなたはいいわよね、もう天国へ行ってしまったんだから。でも私はまだこの世に生きていて、これからも一人で生きなきゃいけないんだからね~。(と、すねたように言う)
夫:そうだよ、君はまだ生きているんだよ。生きているのに死んでいちゃいけないんだよ。ほら、元気を出しなさい!」
まあ、こんなような会話でした。
変な話になり、また、長くなったのでここまでにします。