気の向くままに

山、花、人生を讃える

朝のひとり言

2020年10月05日 | 人生

床屋さんには大きな鏡があって、自分の姿とともに背後の部屋の風景や調度品なども映し出される。
それは小さい子供の目には、あまりに本物らしく見え、鏡の向こう側にも部屋があるように見える。

 

わたしが小さかった頃、鏡に自分の姿が映っていることはわかっていたが、部屋は写し出されているようにも見えたし、向こうに部屋がある様にも思えた。それで、実際の部屋や調度品と鏡に映っているものを見比べようと思うのだったが、きょろきょろすると床屋さんに叱られそうで確かめる勇気もなかった。

 

そして散髪が終わったあと外へ出て、鏡の向こう側を確かめると、何もない空き地なので、おかしいなあと首をかしげる。そして次に行ったとき、また同じことを繰り返し首をかしげた。そんなことを何度か繰り返したが、気がついたときには、いつの間にか、鏡に映っているのだと当たり前の如くわかる様になっていた。

 

それよりもっと小さい頃は、新聞社のサービスで、学校のグランドで映画が上映されたりしたが、その会場に親につれられていく。そしてニュース映画で乗用車がこちらへ向かって走ってくるシーンがあるたびに、自分がその車に引かれるような恐怖を感じたのを思い出す。

 

これは、二次元と三次元の区別がつかず、本物と写し出されたものとの区別が出来なかったことによるのだが、これもいつとはなしに分かる様になっていて、いつの間にか怖さを感じないようになっていた。

 

そして思うに、人間は大人になってからも、これと同様な錯覚を起こして不安や恐怖を感じたりしているのではないだろうか。例えば怖い話をニュースで聞いたりすると、いつか自分にもそんなことが起るかもしれないと、現実には起きていないのに、取越し苦労をしたりするのである。

 

お釈迦さまは、生老病死という人間の4つの苦しみから逃れる道はないかと、王宮での何一つ不自由のない皇太子としての暮らしを捨て、その道を求め、修行し、瞑想し、ついに夢(迷い)から覚め、解脱したという。
そして、人間の本質は「本来仏である」と悟り、
「今、ここが仏国土であり、山川草木悉皆成仏」との悟りを得られたという。

 

ああ、拙者もお釈迦様にあやかりたいものだ。

お釈迦様、聞いてますか?