気の向くままに

山、花、人生を讃える

「山頂に達しないでも・・・」

2010年07月16日 | 人生
伊吹山に登って9合目に着いた時のこと、バスで来たらしいおばさんの一人が、下から登って来る登山者たちを見おろしながら仲間の一人に、「あの人たちは何が楽しくてしんどいのに歩いて登るんだろうねえ」言っているのを偶然後ろから耳にしました。
その実感のこもった言い方が可笑しくて,思わず噴き出しそうでした。

家内は結婚前は山登りが大好きだったようで、彼女のアルバムは山の写真が多く、その家内から、よく山登りに行こうと誘われました。が、その頃はわたしも「この暑いのに、何が悲しくて荷物を背負って山登りなんかしなきゃいかんのか。裸になって海で泳いでいた方がよっぽどいい」などと言っていたものです。

また、雨降りや寒い時期にバイクに乗っている人を見ると、いかにも大変そうに見えて、わたしは「もの好きな人がいるもんだなあ」と思っていました。
ところが、自分が(50CCですが)いざ乗るようになると、これが実に楽しいのに驚きました。
寒さものかわ、雨ものかわ、という感じでした。
乗用車だと眺めのいいところがあっても、なかなか立ち止まりにくいものですが、バイクなら、いつでもどこでも、良いところがあればすぐ立ち止まって眺めることができるし、風を切って走っていると、乗り物に乗りながら、そのまま自然と一体となって走っているようなところが何とも言えずいいものだと思いました。
そして、バイクの楽しさを味わいつつ、我ながら照れ臭く思いながら「今まで、もの好きだなんて言ってごめんなさい」と、心の中で謝ったりしました。

春先のこと、わたしが庭で草むしりをしていると、隣の主人が「それ、草生えてるの?」というので「生えてるよ」というと、「そんな小さいもの、もっと大きくなるまでほっておけけばいいのに・・・。大変だねえ」と言いました。
なるほど、隣の主人から見れば「大変」に見えるらしい。
ところが、やっている本人には、これも気分転換になってなかなか楽しいもの。

側には大変そうに見えても、当人には「楽しい」ということはよくあることだと思う。
また、本人にとって昔は大変と思っていたものが、今は楽しくなったということもよくあること。
そして、逆も真なりですね。

以前、「いろどりひかる」さんのブログで、
「以前は女に生まれたことを悔やんでいたが、今は喜べるようになった」という意味のことを書いておられて、大変感動しました。
これは右から左へと言うように簡単なことではないと思いますが、このような話は聞くだけでもこちらの気持ちが鼓舞され、壁のように見えていたものが、越えられそうな気がしてきてうれしいものです。

「喜べるようになる」というのは人間が共通に持っている「願望」ではないかと思う。

生まれたことを喜べるようになりたい。
仕事が「楽しい」と言えるようになりたい。
神想観が「楽しい」と言えるようになりたい。
それから、何にも心配しなくていいようになりたい、とか。

先日、山登りで疲れない登り方という番組を見ましたが、要は、「登りも下りも急がないこと」でした。
人生も同じだなと思いました。気持が「急くのは禁物」ということかなと思いました。
事が成るのに時期があることを信じて、「待つ」ということも大切ではないかと、わたしなどが偉そうなことを言えたものではないですが、振り返ってそう思います。

昨日、テレビを見ていたら、駅員に理由もなく暴力をふるう人が増加しているというニュースがありました。30代、40代が多いらしいですね。なんだかちょっと気の毒な気がしました。心理学者は、この年代が子供を抱え、職場でも一番大変な時期でストレスが多いのだろうと話していました。

『生命の実相』の中には「人間が心配していることは、重要なことの前には吹き飛んでしまう小さなことばかり」という意味のことが書かれていたのを思い出しますが、実際、わたしの経験からしてもその通りだなあ」と実感させられます。
とは言っても、このような達観した気持ちを持ち続けられたら苦労はないと思いますが。

しかし、たとえ心配していることが現実になったとしても、それが現実になったから大変かというとそうでもなく、谷口雅春先生が教えて下さっているように、心配している間は想像して大変そうですが、当事者になってしまうと、たいしたことはなかったということはいくらでもあると思います。
わたしも心配したことのほとんどがそうでした。振り返れば、ずいぶん、無駄な心配をしてきたものだなと思います。

私の自宅は、7年前の年末の昼間、子供の部屋の電気ストーブの過電流が原因で出火して家事になりました。
(わたしは長男にはよく怒りましたので・・・。そして怒らない人になるというのも切実な願望の一つでした)
わたしも家にいたのですが、カーテンに燃え移って天井まで火が上がり、結局消し止めることが出来ずに消防車のお世話になりました。

経験した人でないと実感として分かりにくいと思いますが、わたしは燃え上がる火を見ながら、「すべてが変わる!」という予感に、未知へのときめきを感じていました。

また、その後は家が焼けたことでリセットされたように空っぽになり、軽くなり、それだけでなく、「失ったものは何もない!自分のうちにすべてがある!」という実感も湧いてきて、今は黙阿弥となりましたが、ともかく、ちょっとした悟りの境地にさえなりなりました。

職場の代表で見舞に来てくれた人が、わたしだけならともかく、家族みんなが楽しそうに焼け残った使えそうなものを干したりしていたのを見て、あれには驚いた、ということを後で不思議そうに話してくれました。(念のために言えば、保険は入っていませんでしたよ。)

ただ悲しかったのは、位牌を焦がし、神棚まで焦がしてしまったことが、自分の不徳で本当に申し訳ないことをしたと、それだけが悲しいことでした。


なんだかあらぬ方向に話がそれてきましたが、最近、聖経を読んでいて、
「汝の心を肉体より一層高きものに一転せよ。一層高きものこそ真の汝なり」という言葉が、心に響きます。と同時に、「山頂に達しないでも、麓の一歩一歩にも星の光は射す」の先生の言葉がしみじみ思い出されます。

その部分を調べてみると、次のように書かれていました。

○山頂に達しないでも、麓の一歩一歩にも星の光は射す。どこにいても神を拝することはできるのである。何処にも天国がある。渓川のせせらぎに宿る星の光にも、草の葉末の露に宿る星の光にも天国は宿っている。
                         (『生命の実相』37巻 107ページ)

とありました。

すべての人が心穏やかでいられますように。

有難うございます。合掌
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