水仙(神奈川県三浦市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
「その形はともかく、どんな人も出来るだけ幸せになるに越したことはない」というのが、
長年いろいろ考えた末の、私の持論だったりします。
「幸せにならなくてもよい」と、自分をかなぐり捨てている人がいるとしましょう。
しかし、他人と全く無縁な生活でも送っていない限り、
必ずなんらかの人間関係を築く必要があります。
その人間関係において、「自分は幸せなんか要らないから!」とムスーッとしていたら、どうでしょう!?
本人はよくても、周りを嫌な気分に巻き込んでしまうのです。
そして、嫌な気分にさせられてしまったということで、
周りの人達もまた、嫌な気分をぶつけてきます。
こうして「幸せなんて要らない!」という願いが叶ってしまうわけですが、
幸せを放棄すれば不必要に他人に迷惑を与えてしまう、ここが大切な点なのです。
こんな悲劇のストーリーを無くすには、幸せを追い求めることです。
「私は幸せになる資格なんてない」という人がいますが、
負い目があるならそれを償う、
責任感を感じるならなんらかの代償は払う、
こういった「贖罪」をすることだって、立派な「幸せを追い求める思考や行為」です。
幸せを追い求めることに、解決の道が顕れるのです
さて。
自分の幸せと他人の幸せの利害が一致しない時はどうするのか?という、
いわゆる「幸福論」の話になると、必ずこんな疑問が出てきます。
「取り合い」とか「邪魔物」と言われるものが立ちはだかった場合、
「人を傷つけてまで必要な幸せって、一体なんだろう」と、
心の中で必ず葛藤が起きるもの。
そんな時に考えたいのが、
「幸せになるのは義務ではない」ということ。
もちろん誰だって幸せになったほうがよいに決まっています。
しかし、「幸せ」というものの形を決めてそれに囚われてしまうようでは、
そんなものはもはや「幸せ」とは呼べないものだと、私は思います。
幸せはどんどん追い求める。
でも、縛られない。
こんな考えが大切なのです。
とても抽象的な話になりましたが、
抽象的だからこそ、「幸せ」というのはいろいろなケースやパターンに当てはめて考えられることなのです。
たまにはこんな話を真面目に考えてみると、
自分の価値観を整理できたりもするもの。
「自分にとっての「幸せ」ってなんだろう!?」と、
よかったら一度、自分に問い掛けてみませんか。