水仙(神奈川県三浦市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
有名な話ですが、「学ぶ」は「真似る」が転じて出来た言葉だと言われています。
たしかに語学ひとつ取っても、発音や文字、文法にたくさん触れておくことで、
自分のものとして習得できるわけです。
語学はもちろん、言葉のやり取りをするための学問ですが、
結局、重視されるのは「使いやすさ」や「伝わりやすさ」です。
そこで、「たくさん触れておく」ことで、
「どうやったら言葉をよりよく扱えるか」というサンプルや見本に沿って、自分もそれに近くなれるように習得する。
ゆえに、語学は結局「真似事」の学問だ、と言えるわけです。
さて。
理想を実現してしまいたい場合、
早いこと「見本になる人」を見つけてしまうのがよいと、私は思います。
もちろん、1人だけではなく、サンプルはたくさんあってよい。
たとえば、気配りはAさん、元気さはBさん、礼儀正しさはCさん、その「礼儀正しさ」の中でも挨拶のしかたはDさん、
洞察力はEさん、前向きさはFさん、自己主張はGさん、腹黒さはHさん、健康管理はIさん…
と、欲張りにも欲張りを重ねて、言葉は悪いですがどんどんまずは「盗んで」しまうんです。
さて、問題はここから。
形だけ真似するなら、誰だってできます。
しかし、形だけ真似していると、たいていはその「立ち居振る舞い」の使い方に失敗して、
むしろ不自然さやぎこちなさが出て自滅するのがオチ。
結局はせっかくの理想も死んでしまいます。
うらやましいと思う言動を真似ることを推奨しているのは、
ファッション的にアクセサリーとして自分を着飾るためでは断じてありません。
形を真似しつつも、「どうしたらそんな言動に至る思考が出来るのかを勉強させてもらうため」というのが、「真似事」をする目的です。
「そこに至る思考とはなんだろう!?」という洞察力が大切なのです。
理想があるなら、形から入ろうが思考から学ぼうが構わない。
でも、形だけ真似して安心しているようでは、
いつまで経っても無駄だよ、こう言いたいのです。
ただし。
私は「いきなり全てを理解すべきだ」と言っているのではありません。
立ち居振る舞いや形を取り入れつつ、少しずつ反復してモノにしていけばよいのです。
理想の人にはその存在に感謝して、どんどん勉強させてもらいましょう。