水仙(神奈川県三浦市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
「ご都合主義」というのは、とかく嫌われる人の代名詞だったりします。
自分の都合に合わせて、善悪の基準が移動するからです。
よく似た言葉に「ダブルスタンダード」というのもありますよね。
例なんていくらでもあります。
誰かに暴言をぶつけられたら烈火の如く怒るのに、
自分が吐く暴言は「愛情があるから許される」とか「やむにやまれぬ事情があったから察せるでしょ!?」と正当化する。
人の部屋を散らかしておきながら、自分の部屋に人を招待した時は五月蝿い。
誰かからの善意にはけちを付けるくせに、
自分の気持ちは押し売りして、受け取らない人を悪く言う。
…こんなことが人間関係のみならず、「大人の社会」でも、たまに散見されるわけです。
「だから二重基準なんてやめましょう」と言うのは簡単ですが、
そこは人間、誰にだってエゴはあるものです。
だいたい、こういう文章を読んだ反応だって、
「ああいるいる、そういう人。困るよねー」
「そんな話もあるよね」
「自分のことを書かれているのかな、気をつけよう…」
などと、様々なわけです。
ただでさえいろいろな反応をされがちな話なのに「キレイゴト」を語りかけたところで、
マトモに理解できても、簡単に生産的な思考が得られるとは限らないのです。
それを踏まえて、「ご都合主義」について私は思うことがあります。
私は「言い訳なんてするものではない」と、訳知り顔で言いたいのではありません。
「誰にだって「言い訳」があるんだから、とりあえずその言い訳に耳を傾けてあげませんか」と言いたいのです。
許せないことをあげつらって非難するのは、とても簡単です。
しかし、非難しただけブーメランの如く自分にも厳しい目が向けられてしまう。
そこで、「お互いにどのくらいまでなら許し合えるか」という点を探る態度が、
奥歯にモノが挟まったような関係にならないためにも、とても大切になってくるわけです。
「自分に厳しく、他人に優しく」と言われます。
しかし、振り返ってみると案外その逆をしでかしてしまっているもの。
だからこそ、両方に優しく(場合によっては甘く)してみることで、
お互いを理解できるようになる。
理解し合えれば、前を向くことができます。
だいたい、一度決めた「基準」だって、
お互いが成長するに連れ、上げていったってよいわけです。
お互いを批判するのではなく、
成長するためにどういう態度でいたらよいか考える。
そう、「敵視」することではなく、「成長」することが大切なのです。
「自分に厳しく、他人に優しく」。
人に好かれるこんな人間性を実現するためにも、
「ダブルスタンダード」とはお別れしておいたほうがよいのかもしれません。