城ヶ島公園から(神奈川県三浦市)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
メールの文面のお話。
私の造語なのですが、「レバ刺し」と呼んでいる表現があります。
「レバ刺し」と言う位だからよい意味かと言うとそうではなく、
「特に親しくもない相手に対して「~れば?」という表現を使うこと」を指して、こう呼んでいるんです。
たとえ悪意がなくとも「~れば?」という表現は「愛想尽かし」とか「拒絶」のニュアンスで伝わってしまいやすい。
つまり、「~れば?」というのは相手を刺すような表現だから、
「レバ刺し」とか呼んで、私は勝手に忌み嫌っているわけです。
だって、同じ「提案の意味で使う言葉」なら、
「~はどう?」
「~もあると思うけど?」
「~してみない?」
…などと、いくらでも表現はあるわけで、
なぜ嫌味がかったような言葉をわざわざ使いにいくのかが疑問でしかたないのです。
「~れば?」という表現ひとつ取ってもいろいろとお話が出来てしまうわけです。
結局「言葉づかい」というのは同じ主張や意思でも、数ある言葉の中からなんでそれを選ぶのか?という見方から、
本人の感情のみならず、人間性を推し量る物差しになるのです。
「言葉づかい?なにそれおいしいの!?」と言って言葉に無頓着でいるような人がなにかと摩擦を作ってしまいやすい原因は、
要は「言葉を選ばないことがいかに怖いことか」を知らないからに他なりません
(↑↑「なにそれおいしいの?は「レバ刺し」のくだりで出すんだったな…(笑))。
そうとは言えど。
言葉を発するたび、いちいち選ぶような真似をしていたら、誰だって身が持ちません。
そこで、無意識にしろ「どんな性格の言葉を使うか」という習慣が形作られていくのです。
もちろん、真面目に誠実に言葉を選ぶ価値がないという相手や場面もあることでしょう。
しかし、相手に合わせて汚い言葉を使っていると、
「悪い習慣」が出来てしまいます。
「言葉づかい」が「習慣の産物」であるならば、
気持ちはともかく、せめてマトモな言葉を使うことで、
結果的に要らぬ影響を受けずに済むようになるわけです。
余談ですが、日本には「言霊(ことだま)」という考えがあります。
大雑把に言うと「言葉も命を持っている」、こんな文化があるんですね。
言葉に命があるなら、言葉や表現は出来るだけより適切に選ぶほうが、
気持ちも籠る(こもる)というもの。
言葉は上手に選んでこそ、生き生きしたと気持ちが伝わるのではないでしょうか!?