しゃちくんは野良猫ブログ

30年以上前になりますが自分探しのためにバイクで日本一周。
そして今、会社を畳んで田舎暮らしの準備中です。

父の死を乗り越えて!

2011-09-19 07:00:11 | ボランティア
5月22日のボランティアに行った翌日、父が入院した為に中断したままの

4ケ月ぶりに南三陸町に行って来た。



まだ誰も住めない瓦礫の街が目の前に広がる…



コンビニもプレハブで営業を再開してます。



運転しながらの撮影でごめんなさい



瓦礫が集積されて、かつて家々が立っていた敷地には草が生えて

一見、田舎ののどかな風景と錯覚してしまう被災地だった。



正面に瓦礫の山があります。



今回はトラックに支援物資を積んで来た(背景はスクラップ自動車置き場)



街の印象は以前に比べれば随分と穏やかに成りつつあります。

5月の時点では自衛隊が生活の根幹を支えてくれて成り立つ避難所生活、

大規模災害からの救出活動の真っ最中だったが

今は街中で住民を見かける事もなくなった。

今回、10枚しか入手出来ませんでしたがプレコンバックにガレキを入れて

あちこちに集積してあるのが分かった。

これはすべてボランティアさんの仕事ですね!

街の復興、再興、これらの下準備を黙々とこなすボランティア!!!

心の逞しい人間が全国から集まる被災地でもある。


ボランティアセンターでは嬉しい再会もあった^^

5月8日にトラック持ち込みで参加してた植木屋さん。

学校を再開させる為に体育館にいる被災者の引越しでした。

彼はあれから継続して通っていた。

私は4ケ月ぶりにここへ来た理由を手短に説明したけど

それがどうした?みたいな目で見られてしまった。


多くの犠牲者を出した南三陸町を助ける為にみんな集まっているのだ!

父を失ってメソメソした男は足でまといになるだけなんだ

でも来て良かったと思う。

今回も不安があったけど自分の中で勇気が湧いてくるのを感じた

絶望感に包まれた街に希望の光を照らしてくれるボランティアさん

その一員であった自分。

よしっ、また来よう!

勇気が湧いて来た。

これで父の死を乗り越えられる。



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支援物資

2011-09-15 00:10:20 | ボランティア


写真は針葉樹合板3×6版 厚さ12ミリ。

東日本大震災ではこれを作っている工場が被災した。

石巻や宮古の工場は国内の製造量の4分の1を担っている。

震災から1カ月もすると東京の市場から消えてしまったのです。

代替え材として入手したのが



ОSB合板 メイドインカナダでした。

1梱包78枚。売値¥1200/枚 ¥93600。

貴重だったこの品物も針葉樹合板が出回ってくれば値崩れします。

なので南三陸町に支援物資として届けることにした。

もちろん、会社は貧乏なので個人で買い上げてあげる。

ボランティアセンターに電話したところ「よくわからない」と言われ

南三陸町役場(現在も仮設プレハブです)に電話で交渉

建設課で話し合ってから連絡をもらう事になっていた。

すべてを失った街ではすごい役立つと思うのになぁ…


先ほど連絡があり喜んで受け入れてもらう運びとなりました。

最後に行ったボランティアが5月22日(日)で

翌日の朝、会社から父を救急車に乗せて

その1ヶ月後にこの世を去ってしまった。


ようやく南三陸町に行く事が出来る!

壊滅した街も一人一人の小さな力を積み重ねてゆけば

必ず復興出来ると信じております。


たった今、高速道路無料化の手続き書類がFAXで送られてきた。

5月のボランティアの頃は週末祝日は\1000乗り放題だったから

民主党はボランティアの負担を増やしてくれた


脱原発を叫ぶ連中はどうせ被災地ボランティアに行かないから

高速道路の事情なんてどうでもいいのかな?


それどころか被災地の事、世間の関心が薄れているみたい。

これからも復興の様子などを伝えられるように頑張りますからね



追伸:江戸川材友会の皆様へ

   私のトラックの荷台はかなりの余裕がございます(笑)

   連日、炎天下の下瓦礫を片づけるボランティアさんの為にも

   スポーツドリンク等を支援して頂けると助かります。

   出発は17日(土)夜8時頃ですので支援物資を提供される場合

   引き取りに伺います。





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届けられませんでした

2011-06-13 00:10:20 | ボランティア

お得意さんの建設会社の松本社長。

趣味の陶芸で被災者に向けたメッセージ入の湯のみを造ってます。

私が南三陸町に届ける予定でした。

ボランティアに行った翌日に父は救急車で病院へ運ばれた。

それどころでは無い状況から購読している読売新聞に相談。

岩手・宮城・福島の被災地に届けられました。

支援物資は手作りの湯のみ

自らボランティアに行けないのでこうして支援してくれます。

新聞に連絡先が明記されてますので

現在、注文が殺到しているそうです。

実はこれが松本社長を困らせてしまった。

あくまでも趣味で続けて制作してる湯のみなんですwww

疲れ気味の社長の愚痴を聞かされまして…

 

あっ、父の容態が安定したらボランティアを再開します♪

尚、直接現地へ支援物資を送りたい方は現地のニーズを確認してください!

南三陸町ボランティアセンター TEL 080-2055-1066

宮城県本吉郡南三陸町志津川沼田56 ベイサイドアリーナ駐車場

(現地はNTTより提供された衛星電話の為繋がりにくいです)

又、現地は壊滅的な被害を受けた町です。

そのことを理解した上で行動してくださいね。

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ボランティアの受け入れ先の問題

2011-05-30 00:10:20 | ボランティア
22日のボランティアは雨だった。

東北最大のボランティア活動拠点の石巻は住宅の泥かきが活動の中心です。

雨の日はボランティア活動はほとんど中止。

全国からはるばる駆け付けたボランティアは仕事を求めて北上し

南三陸町に移動してくる。

先日の報告にもあるように南三陸町でも力仕事が雨で中止

屋内での写真の洗浄・整理等の作業をみんなでやった程。

仕事を求めてさらに北上すると気仙沼を目指す。

でもちょっと待てよ…

石巻~南三陸町(旧志津川町)~気仙沼

これらの社会福祉協議会によってボランティアセンターが開設された町の途中にある被災地を、何故?通り過ぎてしまうのでしょうか?

ボラセンスタッフに聞いてみた。



ここからが現地入した私の貴重な情報なのですよwww

仕事を求めて北に移動するボランティアさんが通り過ぎる町

唐桑・歌津・河北地区も大きな被害と常にボランティアが不足してます。

仕切っているのはRQ(レスキュー)市民災害救援センター

ブックマークのトップに貼り付けております。

東京に本部があり人集めから講座や会議を催している組織。

バスでボランティアを輸送し現地で宿泊場所から食事まで世話をする。

完全予約制で現地での飛び込みは受け付けない。

日帰りでの活動は不可、1泊以上の活動が基本。

ブログで読む限りは理想的な活動に思えるけど

実際は現地で横の連携も無く孤立した組織です。

常に物資が不足していて移動用の車両も無いそうだ。

石巻には全国から支援物資が集まり過ぎて廃棄処分しているのに…

その余乗した物資を不足している地域に運びたい!

それが私のボランティアを始める原点でもあったが

地域を統括する組織がいつも邪魔をしてくれたwww


ボランティア担当大臣辻元清美のせいで

ヘンテコリンな団体があちこちで仕切っております。

それらの団体が入った町は不幸かもしれません。

以上が現地で見た私の報告と分析です。


今後も隔週日曜日にボランティア活動を続けます。

父が退院したら直ぐに再開するつもりです。

被災地ではこれからがボランティアを必要としております!

一人でも多くの方がボランティアに参加出来るように

これからも様々な視点で情報を発信しますよ♪
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22日のボランティア

2011-05-28 08:03:23 | ボランティア
土曜日の夜、高速で東北を目指した。

長者ケ原SAで車内で仮眠しながら夜明けを待つ。

明るくなると24時間営業の食堂で飯を喰う。

被災地に入ったら何も食べなくても平気なんだ!

私はお腹にたっぷりと脂肪を蓄えているのだから(笑)

志津川町に入ると写真を数枚撮影した。

まだ朝の6時すぎ、ベイサイドアリーナを通り過ぎ

真っ直ぐ海へ出てみた。

志津川湾の隣りの浜は被害は少ない。

津波は入江に入ると高さを増し凶暴になるのだ!

引き返して坂を登ると自衛隊の宿営地(テント村)と

仮設の町役場があるのに初めて気が付いた。

駐車場に車を停め受付が始まる8時半まで待つ。

この地区最大の避難所には誰もいない。

駐車場には全国各地から駆け付けたボランティアの車があった。

私と同じで一人で参加しているのです。

ここへやって来るのには家族の同意は得られないwww

夜の高速は生暖かな空気だったが海風は冷たい。

ほどなく雨が降り気温がグングンと下がる。

8時頃からボラセンスタッフが出社?してくる。

受付を済ませ、缶コーヒーとペットボトル飲料を1ケースずつと

お菓子類を差し入れた。

地元、社会福祉協議会の役人は震災から休み無しで働いている。

その他全国から1週間交代で応援に来る。

復興財源確保の為に公務員の給料を引き下げると発表した政府、

何にも分かっていないwww

南三陸町応援Tシャツを買っていたら写真を撮られてましたね。。。

私は力仕事のボランティアを希望してたけどあいにくの天気です。

写真の洗浄が今日の仕事です。

この日は屈強な男もみんな繊細な作業をすることになった。

ああ、前回避難所の引越しを一緒にした植木屋さんと再会。

色々と情報交換していると側で話を聴いてる外国人。

宇都宮在住のアメリカ人マイケル、マッチョな体で繊細な作業を一緒にやろうね♪


向かった先は内陸の隣の集落の廃校になった入谷中学校。

直径1mはあろう杉の巨木に囲まれた「トトロの森」

じゃ無くてレトロな木造校舎。

映画の撮影地に使えそうな雰囲気です。

ただし、校庭には仮設住宅が建設中でした。

今の仮設住宅ってトイレもユニットバスも完備しておりますよ。


この日の作業が始まる。

自衛隊による遺体の捜索と共に回収された写真が膨大な量なんです。

ゴム手袋とマスクの着用が義務付けられた作業。

衛生面で危険らしい…

先輩ボランティアがこれまで洗浄した写真を乾燥のために

教室の床に拡げて並べてあります。

まるでトランプの神経衰弱のように同じ家族の写真を見つけては

一つのグループにまとめてあげる。

写真の主が生きているのか亡くなっているのか…

他の教室には沢山のランドセルや位牌がきれいに掃除されて並んでいる。

今日、28日に被災者の元に帰る日を迎えた。

詳しくはボラセンブログを読んでみてください。
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復興のシンボル

2011-05-27 00:10:20 | ボランティア
ボランティアに行った翌日の朝、

父は救急車で病院に運ばれた。

正直「なんだよ、ちっとも良いこと無いじゃねえか!」

そんな投げやりな気持ちだった。

私は結構、落ち込む事が多いと思う。

でも立ち直りも早い方だと思う。


被災地に行って良かった事?

勇気を持って出掛け、勇気を置いてくるつもりが

実は勇気をもらって帰るとは…

壊滅した町で復興のシンボルを見ました。



津波で破壊された店舗の跡地で

配送用のトラックとビーチパラソルで営業したセブンイレブン。

産経新聞でも大きな写真で紹介されました。

町が全て破壊されて、内陸側の大きな町に行かないと

商店がありません。

お金を持っていても使う店が無いのです。

南三陸町にボランティアを寄せ付けない事情かな?



横を走るのが国道45号線です。

オーナーに許可を頂いて撮影。

扱う商品は少ないけど沢山の勇気をもらった!

正に復興のシンボルなのです☆

後ろに写ったシルバーのセレナがわたちの相棒でし。
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自己満足な22時間

2011-05-23 02:22:20 | ボランティア
東北自動車道から国道398号で太平洋を目指す。

まだ海が見えない標高の高い土地にまで津波は遡り

建物を破壊し、漁船を陸地に運んだ写真を車内から撮影した。



写真正面の小さな山を越えると志津川の町全体が見渡せるようになる。



テレビやyoutubeで繰り返し流された壊滅した町の様子。

これを自分の目で見ると絶句します。

ボランティアに訪れた者はそれなりの覚悟をしているのに

この町を見て言葉を失います。

そして「とにかくこの街のために何かをしたい!」と使命感を持つのだと思う。



写真中央の鉄骨剥き出しの建物が防災センター。

屋上にあるアンテナにしがみついた町長さんは救助された。


多くの犠牲者を出している町の写真を撮る前に黙祷をした。



観光気分で訪れて「ピース!」なんてしたら誰もが怒ります!

多くの犠牲者と行方不明者を出した場所そのものなんです。



被災地を訪れた際の最低限のマナーは守って下さいね。

前日にも、林の中から遺体が発見されたばかりなんです!



初めてのボランティアから2週間。

自宅を夜の9時半に出発した。

天気は下り坂、ボランティアの仕事は無いかも知れない。

少しの支援物資を届け、オリジナルのTシャツを買うだけでも行く!

今回は愛車セレナ。雨でも車中泊が出来る。

スピードは出るが真っ暗で補修跡の高速の路面は白線が引いて無いから

道の先が見えない、怖い。

前回と同じ長者ケ原SAで車中泊。

あまり眠れなかった。

太平洋側は電気も水道も無い。

夜明けを待って被災地入りをします。

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みんなの力!

2011-05-11 07:49:36 | ボランティア
とりあえずボランティアのお話はこれで終わります。

昨日のニュースでは「最も遅い始業式」があちこちで取り上げられました。

まさか初めてのボランティアでたまたま与えられた作業が

こうして全国ニュースで取り上げてもらえたなんて!

地元テレビ局が取材しておりました。

とは言え、私は黙々と荷物運びをしているだけでしたが(笑)


朝の受付で「お昼までの作業でも構いませんか?」と聞いた。

現地で夕方まで頑張ると帰宅は日曜日の夜中www

仕事に支障をきたしてまでは出来ませんから。

「ええ、それでも十分ありがたい事ですから~」

後ろめたい気持ちだったが、すっかり楽になりました。

午前の作業を終えてベイサイドアリーナに戻ってみると

「タマホーム」の大きなテントが避難所の前に設置されて

お揃いの黄色いジャンパーを着たスタッフが100人くらい?

宣伝活動をしてたのでムカッとしてしまった。

でも冷静になって考えると、例え営業活動が目的であっても

被災者は嬉しいと感じているのでしょう。

一番悲しいのは忘れられてしまう事でしょう?

政府の関心もテレビニュースの取材対象も原発ばっかり…

自分の目で見ないと被災地が現在でも水も電気も自由にならない

避難所生活を送っているなんて忘れてしまいそうです。

セブンイレブンの移動販売車が来てたり

自衛隊員が河原で遺体の一部分を回収していたり

同じ日本の中にこんな場所があるのですよ!


ボラセンブログのコメントにこんなやりとりがあった。

関西方面の女性が連休を利用して小学生の子供2人を連れて行きたい!

ボランティアを体験させて子供達の記憶に残る体験をさせてあげたい。

そんな書き込みに対する反論があり

被災地は子供の学習の場所ではありません!うんちく…うんちく…

「わかりました。行きません!」

このやりとりは読んでいて悲しくなりましたよ。


私個人の意見ですが被災地で子供の声を聞くとホッとします。

避難所でお手伝いをする子供の姿を見れば優しい気持ちになると思う。

何が正しくて、何が不謹慎か?

判断を下すへんてこりんな常識人が多過ぎるぞ!


南三陸町ボランティアセンターでは支援物資を受け付けてます。

ボラセンブログでも不足している物を求めていたりします。

物資を届けたついでにちょっとだけお手伝いもありです。

目の前の避難所で肩もみなんてどうでしょうか?

「ちょっと、この荷物運んでくれないかしら?」

「おやすい御用でっ!」これも立派なボランティアです。

どうか、どうか、津波で全壊した南三陸町を応援してください!

ひとりひとりの小さな力でも

みんなの力を合わせれば大きな支援となることでしょう。

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最も遅い始業式

2011-05-10 19:00:00 | ボランティア
たった一度のボランティアなのに色々書いてしまいます(笑)

あれはいけない、これはいけないと注意勧告の多い経験者のブログを読み、

ボランティアをためらっている方を応援したいです!


駐車場のトラックの中で一人ポツンと観察をしてた私。

事前にボラセンに連絡を入れた際、

「避難所の引越しをしてもらいます」と聞いていた。

県外ナンバーのトラックは私と同じボランティアだけど

その時点では会話をする事も無くチラチラお互いを気にしてただけ。

8時半くらいからボラセンのテントに人の出入りがあり

受付が始まった。

ここのスタッフも全国の社会福祉協議会の応援を受けて成り立っている。

トラック持ち込みのボランティアは志津川小学校に向かった。

5月10日に全国で最も遅い始業式を迎える為に

体育館で避難生活をする住民が志津川中学校の体育館に引っ越す。

トラックを一列に並べて先頭の車から荷物を積み始めた。

避難所支援のボランティア、住民の方、学校の先生が既に体育館の中を整理して荷物をまとめてくれている。

家が津波に流されて全てを失った避難住民の方の荷物は少ない。

むしろ今日、退院した母の荷物の方が多いくらいですwww

1ボックスカー1台に小型トラック4台が集まっているのに

3台で足りてしまった。

荷物の積み込みでは「バケツでやりましょう!」と提案があり

バケツリレーで作業が始まった。

お互い初対面のボランティア達はこうした作業を通じて会話が進み

少しずつ知りあうのですね。

荷物を積み終えた3台は先に中学校に向かう事にした。

向こうでは新たな避難所の準備の為のボランティアが待機している。

さて、私のトラックの積み荷が無いのですwww

それともう1台、長野県からやって来た造園屋さんの2tダンプ。

仕事探しをしました。

「運ぶ荷物はありませんかー?」

「仕事を与えてくださーい!」

はるばるやって来たのに仕事にあぶれてしまったのね…

地元ナンバーの2tロング幌付きトラック2台がやって来て

支援物資の移動をすると聞き手伝わせてもらった。

使い捨ての発泡容器の運送屋さんを手配してあったのです。

支援物資はものすごい量が備蓄してある。

中学校に荷物を下ろした3台も戻り作業に加わる。

種類を分けて積み込むのだが、指揮官は校長先生です!

仕分けは避難生活を送る住民の方で

「これは使わないから残して、こっちは全部運んでちょうだい!」

思っているより元気です、チャキチャキのご婦人は手際良い。

「乾パン~乾パン~乾パン~、カレー~カレー~カレー~」と

バケツリレーで積み込む。

電気も水道も使えないうす暗い教室での作業は会話が明るいです。

「割り箸~割り箸~割り箸~、皿~皿~皿~、はい又皿~皿~皿~」

「この発泡容器、こんなに使うのかよ?」

「だって水が無い生活なのよ、使い捨ての容器はすぐに無くなっちゃうのよ!」

「あっ、失礼な事を言ってごめんなさい…」

現地での会話は気を付けなければいけませんねぇ。

「あら?気にしないでね。ボランティアさんが居て助かるんだから~」

みなさん、とても逞しくてこっちが元気をもらってしまうようです。

さてさて、私のトラックは空荷のまま中学校へ向かうのも悔しいので

「運ぶ荷物はありませんか?」と御用聞きをした(笑)

「ストーブがあるそうだよ!」

「はい、喜んでっ!」

「これも中学校に運ぶのですか?」

「うん、ここらでは朝晩はまだストーブを使っているんだよ」

校長先生が教えてくれました。

他のボランティアさんも助手席に乗せて中学校に移動。

小学校も中学校も高台にあるから建物は無事でした。

それらの学校は避難所として使われているけど

5月10日に最も遅い始業式を迎えました。

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涙枯れるまで…

2011-05-09 19:41:38 | ボランティア
猫のトイレを掃除したり、カリカリを山盛りにしたり

出発直前に猫缶を2つ皿に盛り付けしたり…

これから24時間以上、家を開ける時の儀式です(笑)

一人暮らしで猫を飼っていると悩むところなのさ。

まあ、基本的に猫が自由に出入り出来る家なので

餓死する心配は無用だし、ご近所さんにお願いする手もある。

さっさと出掛けないと心が揺らぐwww


土曜日の夜8時にトラックのエンジンを掛けた。

カーナビの目的地を南三陸町志津川に設定し

到着時間は午前2時過ぎと表示されている。

ああ、やっぱり6時間以上は掛かるのだな?

平井大橋から首都高中央環状線に乗り東北道に。

40歳を過ぎてから夜の運転が苦手になっている。

カーナビの音声から「この先100km以上道なりです」と聞くたびに

あぁ…とんでもない遠くを目指しているんだなぁ~

と自信を無くしたけど、その反面

そんな事ではボランティア出来ないぞ!と自分を励ましてもいた。


キッツcatさんのブログで読んだけど東北道の道路状況は

宮城・福島県内では荒れているそうだった。

一定のスピードを保持する大型トラックの後ろを走っていると

テールランプが上下に揺れたりブレーキランプがそれを教えてくれる。

道路のゆがみ、修復した路面の継ぎ目で下から突き上げるような衝撃、

トラックのサスペンションはそれを吸収してくれない。

100km走る毎に休憩をした。

菅生PAでガソリンを給油。AM00:55。既に350km走った。

若柳金成IC手前の長者原SAで仮眠しながら明るくなるのを待った。

考えてみれば昨夜夕飯を食べていない、朝食はカレー丼とそばのセット。

売店で牛タン弁当を昼食用として買った。

高速を降りてからは県道4号と国道398号を繋ぎ太平洋に向かう。


海岸線から離れた場所に漁船を見つけ、ガレキの山が増えてきた。

坂道を下ったら目の前には津波で壊滅した街が広がっている

言葉を失う風景です。

カーナビの案内する道路はガレキと海水に浸かって通行止め。

街中の建物は全てが破壊されている。

鉄骨の建物は骨組みだけが残っていて

鉄筋コンクリートの建物は躯体だけが残っている。

住民が一人も住んでいない街。

震災から2カ月になると言うのに何も変わらないの?

SAで仮眠をした時にふと「このまま帰るのもあり?」と心が揺れたけど

来て良かった。いや来るべきなんだ!

目の前に広がるこの凄まじい街の姿を心に焼き付けなければいけない!


道路脇に手書きのべニア板の案内板を見つけた。

←ベイサイドアリーナと書いてあった。

ボランティアセンターのある町内最大の避難所でもある。

坂を登った高台にその建物はあった。

手前の工場のフェンスには

「自衛隊のみなさん ありがとう」と書いた横断幕がある。

避難所へは夜から早朝に近づいてはいけません!と予備知識があったが

敷地内へ出入りする車が多いので入ってみた。

駐車場手前にあるプレハブの建物群は仮設の志津川病院。

一番奥のテントがボランティアセンターになっている。

駐車場には各地から来ているボランティアの車、

私もそこにトラックを静かに停めた。

朝6時。

駐車場の真ん中には自衛隊の車両が整然と並びすでに給水が行われている。

地元ナンバーの車が次々とやって来てはポリタンクに水を汲んでもらう。

津波被害をまぬがれた高台の家に住む人も電気や水道の無い生活。

仮設トイレが何台も並んでいるがその横には仮設の手洗い場。

トイレでは「小」では水を流すな!「大」の時だけ水を流せ!

トイレットペーパーはくずかごに捨てる。

手洗い場の使用済みの水は小さなプールに貯めてトイレの洗浄用に。

水の手に入らない生活そのものです。


給水活動をする自衛隊員が増えてお湯を沸かしている。

駐車場の上の方に新しい大きな体育館みたいな建物がある。

街に不釣り合いなほど大きくて立派な建物こそベイサイドアリーナ

この地域最大級の避難所となっている。

その建物から魔法瓶を持ってお湯をもらいに人が出てくる。

多分そちらでは自衛隊による朝食の炊き出しが始まっているのだろう。

自衛隊員と避難住民の会話が和やかです。


さて、8時頃になると人の動きも活発になり駐車場も車が増えている。

自治医科大学からは医療の応援チームが大勢来ている。

医師・看護師・薬剤師と名前が入ったベストを着ている。

志津川病院ではたった一人の医師が身重の妻を仙台に避難させて

被災者の治療にあたっていた姿はテレビで紹介されてました。

この勇気があり使命感に燃える姿は全国の医療従事者の心を動かし

今の体制を作り上げたと思います。


ベイサイドアリーナの敷地の一角に消防車が並んでいる。

そうです、消防署も津波に破壊されている。

広い敷地の奥にはトレーラーの荷台に重機が積まれ

続々と自衛隊のトレーラーヘッドがやって来ては

重機をガレキの撤去活動の為に運び出している。

そう、この志津川地区は犠牲者も多く自衛隊の遺体の捜索は

先週まで手作業で行われていたのです。

ようやく重機でのガレキの撤去作業が始まりました。


震災から2カ月、ガレキの街がそのままになっている事情はそこにある。

避難生活を続けている住民の生活の根幹を支えているのは自衛隊です。

「自衛隊のみなさん ありがとう」の横断幕の意味が理解できました。

涙枯れるまで泣いたら、生きている人の復興が始まるのだ!

私もそのほんの一部でもお手伝いが出来ると考えてみたら

ボランティアに来て良かったとつくづく思います。


                             つづく

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言葉に出来ない

2011-05-09 00:10:20 | ボランティア
土曜日の夜8時に出発した初めてのボランティア。

日曜日の夜8時半に帰って来ました。

24時間半でトラックで走った距離は985kmでした。

場所が遠過ぎました。

睡眠時間は30分、実際のボランティアをした時間は3時間。

移動時間ばかりの初体験。

時間をかけてじっくりお話します。

今日はとにかく眠らせてくださいニャ。。。
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