このブログで最も不人気な内容を書きますね。
最新の読者登録をしたブログ、以前から読んでおりました。
原発事故の影響で全住民が避難する中、置き去りになった動物の世話をするために
富岡町でたった一人で暮らす松っちゃんを支援し続けている方のブログです。
当時は原発に批判的な記述も多くてうんざりしてたのです。
ところが最近の記事では富岡町の(放射能の)空間染量が下がって
来春、帰町宣言するかも知れないので嬉しいニュースだと書いてあった。
住民が帰らなければいつまでたっても汚染された町と言われ続けるのですよね。
生まれ育った故郷を取り戻せるのは元住民だけです。
原発反対って誰でも言える言葉。
全住民が避難した町を人が暮らせる町にするにはどうするべきか?
廃炉に向けた作業が進む福島第一原発は再稼働することは絶対に無いのです。
私が福島に通い始めたのは震災の翌年2012年からでした。
福島第一原発から半径20km以内が住民を避難させた警戒区域に指定されて
警察による検問があり立ち入りが禁止された地域があった。
その中に犬や猫をはじめとして家畜も生きたまま放置されており
猫を救出する「にゃんこはうす」を支援してた事は何度も書いている。
同年4月に警戒解除された南相馬市小高区の国道6号線には浪江町境に検問があり(警戒区域北側)
同年8月に警戒解除された楢葉町の国道6号線上には富岡町境の検問があった(警戒区域南側)
北も南も検問の向こう側に行けなくて歯がゆかった。
その警戒区域の中には多くの犬猫が必死に生き延びて飼い主さんが迎えに来るのを待っていたのだから(涙)
被ばくの影響で置き去りにされた動物たちが死んでいるのなら諦めがついた。
飢餓と不衛生な環境から疥癬等の皮膚病以外にこれといった症状は見られない猫たちを
1匹でも多く救ってあげたいと思うから通い続けた。
圏内に潜入して猫を助け続けるレスキュー班の方達も健康被害は出ていないのです。
当時の「にゃんこはうす」のブログ記事には警戒区域内(原発から20km圏内)の様子がそのまま書いてあり
避難住民がこれを読んでいたら希望を捨てなかったはずです。
仙台を本拠地とする地方紙に河北新報がある。
目の前に被災地を抱え、東北の復興とともに歩むと宣言しておきながら
福島の将来については希望を感じさせぬ記事を書き続けているとあるブログでも指摘してた。
以前もあるブログで読んだところによれば国政に関する記事は共同通信社から配信された内容を
そのまま掲載しており、福島の原発事故による避難住民のこれからについても同様で
車を走らせれば1~2時間の場所なのに自分たちで取材しないのが原因では?と言われてます。
もしも河北新報の記者たちが「にゃんこはうす」のブログを読み取材をしていれば
独自の視点で警戒区域の真実を伝えられたはずなのです。
他紙に遅れをとるな!では新聞はどれも同じになってしまいます。
こんな小さなブログで叫んでも意味がないかも知れません。
それでも浜通りの復興を信じて書き続けますね。
ここで終わった文章でしたが昨夜(金曜日の夜)のNHK特報首都圏「避難解除後の原発避難者たち」を
私も観てたし番組の感想を記事に書いている方もいる。
ねこ庭の独り言「これでいいのだろうか」こういう感想が多いと思います。
ずーっと書いてきたことに私が最初に支援をした被災地は宮城県の南三陸町だったこと
津波で自宅どころか家族も失い、町ごと壊滅して帰る家を失った住民の支援をしてたのです。
一時支援金しか無かった被災者の方たちのその後と原発避難者を比較してみてください。
高台にある学校の校庭や山を切り崩して整地した場所に仮設住宅が建設されて
子育て世代は生活のために仕事を求めて近隣の都市部にアパートを見つけ移り住み
年金暮らしの高齢者は復興公営住宅に入居が始まり自宅を自力再建する方はかさ上げ工事を待ち
苦労の多かった間もなく6年だっただろう。
原発避難者は東電から毎月、生活保障金が支給されるから「やることがない」避難生活が出来ていた。
国や東電が何とかしてくれると何もしないで6年を迎えようとしているのではないかと思う。
放射能汚染で危険だから住むことができない場所へ犬猫を救出のために何度も立ち入ったレスキュー班
誰もいなくなった富岡町で動物の世話をするために避難もせずに一人で生活を続けている松っちゃん
津波で全てを失い、生活の為に働く除染作業員
南相馬市にある「にゃんこはうす」に通う為に全村避難中の飯舘村を通過してた私も
帰ろうと思えば帰る家が残っている原発避難者を複雑な思いで見つめてしまいます。
番組の中で楢葉町の元住民が自分は良いが子や孫のことが心配だと話す男性がいたが
楢葉町は役場も戻り、公立の学校も再開し避難先のいわき市からバスで通学する中学生もいる。
その部分も番組で伝えないと本当のことが視聴者に伝わらない。
福島で活動してた頃にブログにも書いてた事
江戸川で材木屋を続けていると飽和状態だし閉塞感に包まれているので
いっそのこと新天地として福島の暮らしを考えてた。
勿論、ある程度の住民が戻ってくれなければ商売が成り立たないので最低条件です。
新規参入者も一度捨てた町に戻るのも開拓者精神が必要だと思います。
長文となってしまったので今回はここまでとします。
最新の読者登録をしたブログ、以前から読んでおりました。
原発事故の影響で全住民が避難する中、置き去りになった動物の世話をするために
富岡町でたった一人で暮らす松っちゃんを支援し続けている方のブログです。
当時は原発に批判的な記述も多くてうんざりしてたのです。
ところが最近の記事では富岡町の(放射能の)空間染量が下がって
来春、帰町宣言するかも知れないので嬉しいニュースだと書いてあった。
住民が帰らなければいつまでたっても汚染された町と言われ続けるのですよね。
生まれ育った故郷を取り戻せるのは元住民だけです。
原発反対って誰でも言える言葉。
全住民が避難した町を人が暮らせる町にするにはどうするべきか?
廃炉に向けた作業が進む福島第一原発は再稼働することは絶対に無いのです。
私が福島に通い始めたのは震災の翌年2012年からでした。
福島第一原発から半径20km以内が住民を避難させた警戒区域に指定されて
警察による検問があり立ち入りが禁止された地域があった。
その中に犬や猫をはじめとして家畜も生きたまま放置されており
猫を救出する「にゃんこはうす」を支援してた事は何度も書いている。
同年4月に警戒解除された南相馬市小高区の国道6号線には浪江町境に検問があり(警戒区域北側)
同年8月に警戒解除された楢葉町の国道6号線上には富岡町境の検問があった(警戒区域南側)
北も南も検問の向こう側に行けなくて歯がゆかった。
その警戒区域の中には多くの犬猫が必死に生き延びて飼い主さんが迎えに来るのを待っていたのだから(涙)
被ばくの影響で置き去りにされた動物たちが死んでいるのなら諦めがついた。
飢餓と不衛生な環境から疥癬等の皮膚病以外にこれといった症状は見られない猫たちを
1匹でも多く救ってあげたいと思うから通い続けた。
圏内に潜入して猫を助け続けるレスキュー班の方達も健康被害は出ていないのです。
当時の「にゃんこはうす」のブログ記事には警戒区域内(原発から20km圏内)の様子がそのまま書いてあり
避難住民がこれを読んでいたら希望を捨てなかったはずです。
仙台を本拠地とする地方紙に河北新報がある。
目の前に被災地を抱え、東北の復興とともに歩むと宣言しておきながら
福島の将来については希望を感じさせぬ記事を書き続けているとあるブログでも指摘してた。
以前もあるブログで読んだところによれば国政に関する記事は共同通信社から配信された内容を
そのまま掲載しており、福島の原発事故による避難住民のこれからについても同様で
車を走らせれば1~2時間の場所なのに自分たちで取材しないのが原因では?と言われてます。
もしも河北新報の記者たちが「にゃんこはうす」のブログを読み取材をしていれば
独自の視点で警戒区域の真実を伝えられたはずなのです。
他紙に遅れをとるな!では新聞はどれも同じになってしまいます。
こんな小さなブログで叫んでも意味がないかも知れません。
それでも浜通りの復興を信じて書き続けますね。
ここで終わった文章でしたが昨夜(金曜日の夜)のNHK特報首都圏「避難解除後の原発避難者たち」を
私も観てたし番組の感想を記事に書いている方もいる。
ねこ庭の独り言「これでいいのだろうか」こういう感想が多いと思います。
ずーっと書いてきたことに私が最初に支援をした被災地は宮城県の南三陸町だったこと
津波で自宅どころか家族も失い、町ごと壊滅して帰る家を失った住民の支援をしてたのです。
一時支援金しか無かった被災者の方たちのその後と原発避難者を比較してみてください。
高台にある学校の校庭や山を切り崩して整地した場所に仮設住宅が建設されて
子育て世代は生活のために仕事を求めて近隣の都市部にアパートを見つけ移り住み
年金暮らしの高齢者は復興公営住宅に入居が始まり自宅を自力再建する方はかさ上げ工事を待ち
苦労の多かった間もなく6年だっただろう。
原発避難者は東電から毎月、生活保障金が支給されるから「やることがない」避難生活が出来ていた。
国や東電が何とかしてくれると何もしないで6年を迎えようとしているのではないかと思う。
放射能汚染で危険だから住むことができない場所へ犬猫を救出のために何度も立ち入ったレスキュー班
誰もいなくなった富岡町で動物の世話をするために避難もせずに一人で生活を続けている松っちゃん
津波で全てを失い、生活の為に働く除染作業員
南相馬市にある「にゃんこはうす」に通う為に全村避難中の飯舘村を通過してた私も
帰ろうと思えば帰る家が残っている原発避難者を複雑な思いで見つめてしまいます。
番組の中で楢葉町の元住民が自分は良いが子や孫のことが心配だと話す男性がいたが
楢葉町は役場も戻り、公立の学校も再開し避難先のいわき市からバスで通学する中学生もいる。
その部分も番組で伝えないと本当のことが視聴者に伝わらない。
福島で活動してた頃にブログにも書いてた事
江戸川で材木屋を続けていると飽和状態だし閉塞感に包まれているので
いっそのこと新天地として福島の暮らしを考えてた。
勿論、ある程度の住民が戻ってくれなければ商売が成り立たないので最低条件です。
新規参入者も一度捨てた町に戻るのも開拓者精神が必要だと思います。
長文となってしまったので今回はここまでとします。
私のブログは、少し違った意味で引用されていますが、おおもとは同じと思いました。
貴方は、故郷へ戻らない被災者たちを批判的に見られ、私は、キチンとした情報を伝えないマスコミと政府を批判しております。
危険データばかりを発信するマスコミがあるから、帰れない住民が生まれます。子持ちの若い世代を、責める気になれないのは、そこです。放射能災害の基本は、正確な数値の発表と、被災地で活動している住民の情報です。
悲観的報道と同時に、楽観的報道がなされれば、あとは住民や国民が判断します。情報が偏っているところに、問題があるのです。
実際現地に足を運ばれている貴方と、マスコミやネットの情報しか知らない私では、「故郷へ帰らない住民」への思いに、温度差があるのは仕方がありません。
いろいろな意見や、様々な見方がありましても、ここは私たちの日本であり、福島でありますから、これから先も、自分の生活の一部として考えてまいります。
町へ戻ろうと奮闘する楢葉町、数字が間違っているかもしれませんが7千人の住民のうち3割が町に戻ろうと奮闘しております。たった3割しか、と表現されると避難先のいわき市と楢葉町役場での二重行政を少ない職員で運営するのは疑問だと言う声も多いのです。
しかし楢葉町町長さんは3割もの町民が町へ戻って復興させたいとの意思を尊重して役場を戻しました。
震災直後は情報が錯そうしてましたが3割の住民と7割の住民の違いは何でしょうか?
「故郷を取り戻せるのは自分たちしかいない!」ではないでしょうか?私もかなりの量を被ばくしているのです!健康被害はありませんよ!置き去りになった動物たちも体を張って安全を証明してます。それでも不安を感じるなら町に戻るのは諦めて、他の土地で暮らす決断をする時期になっているのです。