小説「人間革命」を読んでいると、特に旧人間革命は、日蓮正宗創価学会を退転しそうになり、それをどうやって防ぎ、過ちに気付き退転せずに済んだかの体験も載っている。
ほんの1ミリ、信心の姿勢が狂っただけで、信仰の根本も必ず狂うことが説かれていて、自分の信心を見直すきっかけにもなった。
多くの学会員達の過ちが描かれるが、実は、主人公山本伸一こと池田大作の、日蓮正宗からの離脱劇でもあったことが、今から思えばそうか、と納得できるが、それら小説では池田が主人公である為、常に池田が美化され、離脱の過ちは過ちと指摘され叱責されることもなかった。
堂々と主人公自身が過ちを犯し、それを池田目線で美化し、読者は煙に巻かれ、誤魔化される。そこには当然、池田および創価学会の被害者意識も書かれる。
創価を去った人の、そこでは退転者の悲哀が語られるが、当の池田自身の退転劇には、小説では池田をほめそやし、非難の文字は見当たらない。
当然、山本伸一こと、池田大作を主人公にした物語なので、自画自賛、我田引水の話になり、話が片手落ちであり、陳腐なものに感じる。
旧人間革命は、池田も主役級だが、本当の主役は戸田城聖第二代会長だ。戸田目線でこの小説を書き換えるならば、池田は袋叩き、責めに責められ、獅子身中の虫として、戸田先生の叱責に遭い、ノックアウト必定だ。
その面で、旧人間革命も、新人間革命も、論理が破綻していて、とてもじゃないが、読めた代物ではない。
全ての間違いは、池田大作に三代会長の座を乗っ取られた、創価学会の失態に尽きると言わざるを得ない。誰もその時は、池田の野心・野望を見抜けなかったので、多くの人が池田に一杯食わされた、という体たらくである。
まことに歴史の裁きは厳しい。