2日目は「えびせんべいの里」の工場を見学後「やきものの常滑」の街を散策、午後岡崎の八丁味噌工場を見学する。
*えびせんべいの工場
工場見学する人は殆どなく、えびせんべいのショッピングが目的の方々ばかりである。ツアーの参加者も工場を見学した方は殆どいない。
一寸覗いて見たが各種のせんべいを焼く行程から包装まで自動化されており、焼く機械は10数台並んでいた。ショッピングには興味が
ないので時間を持てあました。皆さん大きな袋をぶら下げてバスに帰って来た。
*やきものの常滑の街
常滑のやきものは日本6古窯の一つだそうだ。陶磁器には造詣がないので知らなかったが、6古窯とはWikipediaによれば、
「日本古来の陶磁器窯のうち、中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯の総称」で以下のやきものである。
瀬戸焼:愛知県瀬戸市 常滑焼:愛知県常滑市 越前焼:福井県丹生郡越前町 信楽焼:滋賀県甲賀
丹波立杭焼:兵庫県篠山市今田町立杭 備前焼:岡山県備前市伊部
やきもの散歩道が設定されており,1周約1.5KM60分程の歩道である。解りにくい散歩道で要所要所に案内版があったが、それでも迷い
そうになった。散歩道の地図を頼りに何とか1周できた。解りにくい散歩道で間違いないように歩くのに気を取られ、帰ってから散歩道の
地図を見ると肝心のところは殆ど見落としたようだ。前もって地図を見ておけばと思うと、誠に残念であった。初めてのところは案内人が
必要だ。
登窯(陶栄窯)についての要約
常滑の登釜は江戸時代天保5年(1834)効率よく生産する為に導入したのが始まりと言われている。主流であった鉄砲釜(大釜)では
効率よい生産は難しくのぼり釜の導入は画期的な出来事だった。この陶栄釜は明治20年ごろ築かれ、当初は薪や松葉を焚いていたが
明治30年代の後半になると第一室の焼成に石炭が使われるようになり、折衷式とよばれ常滑では一般的となった。陶栄釜も、その頃
に折衷式になったと推定される。現在残っている登窯は約20度の傾斜地に八つ焼成室を連ね、全長22M,最大幅9.6M,最大天井高
3.1Mと大型の登窯の部類に属し、明治末期60基ほどあったと記録されている。その後、常滑では石炭窯が一般的となり登釜の数は急
速に減り、現在ではこの陶栄釜が残るだけとなった。昭和49年1月の窯出しを最後に創業を停止、昭和57年に重要有形民俗文化財に
指定され保存されることになった。 常滑市教育委員会
登り釜 左側に焼成室の入口が見える 登釜広場 右奥展示工房館
←土管坂
やきもの散歩道・土管坂の案内看板
土管坂の説明文要約
土神坂の路面には土菅を積み重ねて焼くときに下に置く「焼台」(ケサワともいう)
が敷かれており、坂の両側には明治時代の「土管」と昭和初期の焼酎瓶が埋め込まれ
ている。 国土交通省の「ふるさと坂道三十道」に 選定されている。
散歩道には 土管・焼酎瓶等による塀・土留めがたくさんある。
*岡崎の八丁味噌
八丁味噌の郷「カクキュー八丁味噌」を見学した。ここだけは案内人がついて説明してくれた。もっとも「名古屋城」や「やきものの常滑
の街散策」と違い案内人がいなければ全く見学は不可能だ。八丁味噌の八丁は岡崎城より西へ八丁はなれた八丁村、ここで味噌の仕込を
始めたのが始まりだそうだ。八丁味噌の製造行程で全くほかの味噌と違うところは、一般の味噌は茹でた大豆を米麹で発行させるが、八丁味
噌は大豆を蒸して直接麹菌で発酵させることだという。そして一般の味噌は半年で熟成できるが八丁味噌は熟成に2年かかるという。
さらに発行熟成させる仕込み桶には2トンの重し(石の山積み)が乗せられている。重しは水分が流動し塩分が底に沈まないようにするため
だという。八丁味噌と一般の味噌の違いがよく解った。
←明治四十年建築の味噌蔵で改築して資料館となっている。
文化庁の登録文化財に登録されている。
仕込中の味噌桶 大正時代の仕込桶、現在も使用している
1泊2日の旅も終わり19時半無事帰宅した。
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