食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

油とてんぷらの歴史-近世日本の食の革命(8)

2022-01-19 23:15:57 | 第四章 近世の食の革命
油とてんぷらの歴史-近世日本の食の革命(8)
江戸の屋台で人気の食べ物と言えば、前回の「そば」に加えて、「てんぷら」と「すし」があります。これらは「江戸の三味」と呼ばれました。

日本の伝統食に食材を油で炒めた料理がほとんどないことから、日本人はどうも油のことがそれほど好きではなかったように見えます。ところが、油にどっぷりつけて揚げるてんぷらは別格で、高級料亭でも必ずと言っていいほどてんぷらが出て来ます。ただし、てんぷらを揚げた後は油をしっかり切って、なるべく油分が少なくなるようにはしています。

今回は、屋台食から高級料理まで上り詰めた「てんぷら」の歴史について見て行きます。



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てんぷらは食材に衣をつけて油で揚げて作る。たね以外に必要なものは、衣を作る小麦粉と揚げるための油だ。特に重要なのが「」で、てんぷらが庶民の間で広く食べられるようになるためには、大量の油が世の中に流通する時代が来るまで待つ必要があった。

古代から使用されている油としては、「ごま油」とエゴマからとった「荏油(えのあぶら)」などがあった。これらは主に寺院や公家の家で、照明用の灯油(ともしびあぶら)として用いられた。また、クジラからとった鯨油や魚油も灯油に用いられた。

これらの油は揚げ物にも利用され、奈良時代からはごま油などで揚げて作った「唐菓子(とうくだもの)」が作られている。また、鎌倉時代から室町時代にかけて、中国から帰国した留学僧が、野菜やきのこ、豆腐などをごま油で揚げる料理を紹介している。しかし、この頃までのごま油や荏油(えのあぶら)は生産量が少なく、庶民まで行きわたらなかった。

ところが室町時代末期になると、織田信長や豊臣秀吉の振興策を受けて、アブラナの種(菜種)を搾って作った「菜種油」の生産量が伸びてきた。さらに江戸時代になると、アブラナの栽培も増えたことから菜種油の生産量がますます増加して行った。稲作の裏作として、秋に種を蒔いて春に収穫するアブラナの栽培は都合が良かったようである。

菜種油は主に「行灯(あんどん)」で使われた。行灯は菜種油の普及にともなって開発された江戸時代を代表する照明器具であり、江戸の初期にはもっぱら行灯をともすために菜種油が使われたのだ。

一方、1615年には、質の悪かった木綿の種を搾った「綿実油」に石灰を入れて精製する方法が大阪で考案された。その結果、綿実油の品質が著しく向上したため、生産量も増えて行った。

こうして菜種油綿実油の生産量が増加した結果、日本で消費される油の大部分をこの2つの油が占めるようになる。例えば、1698年に大阪から江戸や京都に運ばれた油のうち、菜種油は68%で綿実油は25%であり、2つで9割以上を占めている。

さらに享保年間(1716~1736年)になると、灘(兵庫県)で水車を利用した搾油が始まった。人力に比べて大量の油を搾ることができるようになり、安価な油が大量に出回るようになったのである。

以上のように、油の生産量が飛躍的に増加した結果、以前は非常に高価だった油を庶民も使用できるようになったのである。ちなみに、日本人が一日に三度の食事をとるようになったのは18世紀になってからであるが、その理由の一つとして、照明用の油が広く普及して、夜遅くまで起きているようになったため、お腹がすくようになったからというものがある。

さて、いよいよ「てんぷら」の歴史だ。油が安価に手に入るようになったことで、てんぷらも簡単に作れるようになって行った。

江戸初期の上方では、鹿児島から伝えられた、魚のすり身を油で揚げた「つけあげ」が人気を博していた。これが江戸に伝わると、すり身ではなく、素材に衣をつけて揚げるようになる。まず、野菜を揚げたものが「あげもの」や「胡麻あげ」と呼ばれて人気を呼んだ。やがて、魚介類に衣をつけて揚げるものが考案されて「てんぷら」と呼ばれるようになる。これが大評判となるのだ。

この「てんぷら」は屋台で売られていた。その理由は次のようなものだ。

江戸では火事は日常茶飯事であり、時折大火と呼ばれる大規模な火災が発生した。例えば、1657年の明暦の大火では江戸城の天守閣を含む江戸の大半が焼け落ちたという。このため、てんぷらなどのように火を使う商売は店舗での営業が許可されなかったため、屋台で作って販売したのである。しかし、このことが一般大衆に「てんぷら」が広く広まる役割を果たしたと言える。

てんぷらは手が油で汚れるのを防ぐために、串にさして売られていた。一串は4文(80円ほど)で、とても安い。たねは「あなご」「こはだ」「貝柱」「芝海老」「するめいか」などで、どれも美味しそうだ。また、油ものなので腹持ちも良い。このように、安くて美味しくて満腹感が得られる食べ物を屋台で気軽に買えるとなると、大人気になるのは当たり前だ。

なお、てんぷらの屋台には天つゆ大根おろしが置かれていた。江戸時代のてんぷらは衣が厚かったため油くどく、それを和らげるために考案されたと考えられている。現代のてんぷらは衣が薄いので、塩で食べても美味しいのだろう。

江戸の屋台が最も盛んになるのは、産業や文化が発展した天明期(1781~1789年)以降と言われている。これには、この頃に関東でも菜種油と綿実油の生産量が増大して、油がさらに安価になっていたことも関係していると考えられる。

このように庶民の食べ物として根づいた天ぷらだったが、次第に高級化路線も出現した。文化年間(1804~1818年)には高級魚のカツオのてんぷらが登場し、さらに安政年間(1854~1859年)には、店舗で高級な素材で作ったてんぷらを売る店が現れた。また、客の家で揚げたてを食べてもらう「出張てんぷら」というものまで登場したという。

なお、私が大好きな「天丼」は、幕末に生み出されたという説が有力だ。