食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

すしの歴史-近世日本の食の革命(9)

2022-01-23 15:26:12 | 第四章 近世の食の革命
すしの歴史-近世日本の食の革命(9)
今回は、「そば」「てんぷら」と合わせて「江戸の三味」と言われる「すし」の歴史について見て行きます。

「すし」と言えば「にぎりずし」を思い浮かべる人が多いと思いますが、「にぎりずし」が生まれたのは18世紀末から19世紀初頭の江戸と考えられており、それまでは別のものが「すし(鮨)」と呼ばれていました。こうして新しく誕生したすしは「江戸前すし」と呼ばれ、今では全国に広がっています。

ところで、にぎりずしは、酢を加えたご飯の小さな塊の上に魚介類のすしネタを乗せて握ったものです。材料としては言うまでもなく、「ご飯」「酢」「すしネタ」が必要ですが、この中で「ご飯」に「」を入れることが、にぎりずしの誕生には必須でした。

この「酢」についても、その歴史を振り返りながら、すしとの関係を見て行きたいと思います。

なお、すしを「」と書くことがありますが、これは中国では魚の塩漬けを意味する漢字で、日本ではいつしか「すし」を指す言葉として使われるようになったものです。それが明治以降になると、「寿司」という漢字を使用するのが一般的になりました。



***************
日本における最初のすしは「なれずし(馴れずし)」だと言われている。これは魚介類などを長期保存するために、塩をした魚肉などを米飯とともに漬け込んだものだ。米によって乳酸菌が繁殖し、それが乳酸を生成することで酸性になり、魚の腐敗を防ぐ。また、魚肉のタンパク質が分解してうま味成分のアミノ酸ができる。この馴れずしの製造方法は弥生時代にイネの伝来とともに中国大陸から伝えられたと考えられている。

滋賀県の「鮒ずし(ふなずし)」が現存するなれずしの代表格だ。なれずしには魚が主に使用されるが、野菜や獣肉も使われることがあったらしい。

なれずしが出来上がるまでには数カ月から1年以上もかかる場合があるため、その間にご飯の方は次第にドロドロに溶けて食べることはできなくなる。つまり、すしと言っても魚などの肉の部分を食べる食品だったのである。

室町時代になると、漬け込む期間を短くすることで、原型を保ったご飯と生に近い魚を一緒に食べる「生成(なまなれ)」が作られるようになったとされる(篠田統氏の説、異論もあり)。それでも製造には十日から1カ月ほどかかっていた。

江戸時代に入ると、いよいよすしに「酢(酢酸)」が使われるようになる。「押しずし」の誕生だ。これは、昆布だしで炊いてから酢を加えたご飯の上に調理した魚介類のネタを乗せ、押し付けて作ったすしだ。圧力をかけることで酢がネタに移るので、数日間で作ることができる。また、酢につけた魚介類がネタに使われる場合もある。鯖ずしなどがそれにあたる。

このように酢が使われるようになった背景には、酢の生産量が伸びたことがある。

酢は一般的に、穀物(コメ・ムギなど)や果物(ブドウなど)からアルコールを醸造し、そのアルコールに酢酸菌を作用させることで造り出す。つまり、酒が造れないと酢も造れないのだ。

「お坊さんの酒造り(日本酒の歴史)-中世日本の食(9)」でもお話ししたが、日本酒の醸造技術は室町時代に大きく進歩した。それにともなって日本酒の生産量が増え、また、酢(米酢)の生産量も増えたのである。酢がたくさん出回るようになると、それを料理に多用できるようになり、押しずしが作られたというわけだ。なお、魚介類を酢に漬け込んだ「膾(なます)」もよく作られるようになり、酢飯の上に乗せられたのである。

押しずしが考案されたのは上方(大阪・京都)だったが、それが1670年以降に江戸に伝わり、江戸湾(江戸前)で獲れたアジやコハダなど使った押しずしが作られるようになった。これが評判を呼び、行商(天秤棒での降り売り)などで盛んに販売されるようになる。また、1702年には現在の日本橋人形町で、「江戸三鮨」の一つの「毛抜鮨(けぬきすし)」が押しずしの販売を始めた。

一方、江戸時代になるまでに江戸湾で海苔の養殖技術が確立し、紙すきの技術を使って板状の板海苔浅草海苔)が作られるようになった。そして、押しずしの流行の後に、板海苔でご飯とネタを巻いた「巻きずし」が作られるようになった。この巻きずしも江戸前すしに含まれる。

次に、いよいよ握りずしの誕生であるが、19世紀初頭に出版された『守貞漫稿』には、「いつの間にか押しずしが廃れて、にぎりずしだけになった」とあり、握りずしが作られるようになったのは18世紀末から19世紀初め頃だと考えられている。

握りずしはその場で簡単に作れて屋台で売りやすかったことから、またたく間に江戸中に広がった。また、握りずしは一つ8文(100~200円)で、安価なため気軽に食べられるのも大流行した理由の一つだった。ネタにはクルマエビ・コハダ・シラウオ・玉子焼き・アナゴ甘煮などが使われた。なお、マグロは1831年にマグロが獲れすぎた時に、すしネタに用いられるようになったと言われている。

やがて、店舗で高級なすしを出すところも現れた。1824年には小泉与兵衛がワサビ入りの握りずしを考案し、両国で「与兵衛すし」を開店した。また、1830年には深川で「松が鮨」が開店し、豪華絢爛なすしで金持ちたちを魅了したという。なお、この2店も江戸三鮨に数えられる。

最後に、江戸前すしの発展に貢献した「酢」について紹介しよう。それは「粕酢(かすず)」あるいは「赤酢」と呼ばれる「酒粕」で造った酢のことで、現在の「ミツカン」の創業者の中野又左衛門が19世の初めに醸造方法を確立したものだ。この粕酢のうまみや風味が江戸前すしの酢飯を作るのに適していたのと、米酢よりも安価だったため、広く使われるようになったのだ。

江戸前すしは、しばらくの間は江戸(東京)の郷土料理だったが、1923年の関東大震災で東京のすし職人が全国に四散することで各地に広まった。さらに、1958年に大阪で回転寿司店がオープンすると、各地で江戸前すしを出す回転寿司店が相次いで開店し、すしの主役の座を占めるようになる。