ゲルマン民族の大移動(3)
前回見たように、ローマ帝国とゲルマニアの間には国境があったが、多くのゲルマン人がローマ国内に移住してきていた。このような中でゲルマン民族の大移動と呼ばれる出来事が375年から始まる。その直接の原因となったのが、遊牧騎馬民族の「フン族」がゲルマン民族の一つの東ゴート族に侵攻してきたことだ。
フン族は中国では匈奴と呼ばれていた民族で、後漢に攻撃されたために西方に逃げてきたという説が有力だ。彼らは4世紀頃までに現在のロシア連邦の西部を流れるヴォルガ川流域に住み始めた。このフン族が4世紀後半になると食料不足のためさらに西側に移動する。そして370年頃、黒海北岸に居住していたゲルマン民族の一つの東ゴート族を襲った。フン族の攻撃はすさまじく、ほとんどの建物は破壊され、多数のゲルマン人が惨殺されたという。そして、東ゴート族はフン族に支配される。
東ゴート族の惨状を目の当たりにした西ゴート族はパニック状態に陥り、375年に南へと移動を開始し、翌年にはドナウ川を渡ってローマ帝国内に逃げ込んできた。この時に移動した西ゴート族の人々は10万人に及ぶという。これを始まりとしてゲルマン民族の大移動が6世紀まで続く。
逃げ込んだ西ゴート族はローマ帝国と協定を結び、ローマ帝国に兵士を出す代わりに保護を受けることになった。しかし、ローマ帝国から約束の食料の供給がほとんどなかったことから反乱が発生する。これに対してローマ帝国皇帝ウァレンス(在位364~378年)は378年に自ら軍を率いて鎮圧にあたったが惨敗してしまう(ハドリアノポリスの戦い)。さらに、ウァレンスも避難した小屋ごと焼き殺されるという最期を遂げた(火をかけた者は皇帝だとは知らなかったとされる)。勝利した西ゴート族は各地で略奪を繰り返したという。
379年に即位したローマ帝国皇帝テオドシウス1世(在位:379~395年)は、さっそく同じ年に西ゴート族にトラキアへの移住を許可した。西ゴート族には納税の義務はなかったので、これは土地の自由使用を認めたということになる。
テオドシウス帝は395年に亡くなるが、遺言で帝国を東西二つに分けてそれぞれを二人の息子に統治させるように命じた。こうしてローマ帝国は395年に東西に分裂する。ただし、これは実質的な分裂ではなく、多くのローマ人が帝国は一つという考えを持っていたという。ところが、東西ローマでは様々な状況が違い過ぎた。
西ローマ帝国を引き継いだホノリウス(在位:395~423年)は政治には無能であったことと、西ローマには頻繁にゲルマン人が侵入してきたことから急速に国力が衰えて行ったのだ。この時に侵入が活発だったのが、ヴァンダル族、スエビ族、ブルグント族などである。また、アングロ・サクソン人はローマ帝国が放棄したブリタニアに侵入した。なお、後にフランク王国を建てるフランク族は4世紀中ごろよりガリアに移住し、ローマ軍兵士として活躍するとともに、後にはフランク族の支配層がローマ軍の司令官や政府高官になったり、皇帝の妃となったりするなど、ローマ帝国内に確固たる地位を築いていた。
5世紀初頭になると、西ゴート族が再び反乱を起こしイタリア半島に侵攻した。彼らはローマでも略奪行為を行ったが、ホノリウス帝には鎮圧する力はなかった。そして、ついに418年に西ゴート族がイベリア半島に独自の王国を樹立することを認めることになる。これが711年まで続く西ゴート王国の始まりである。これによってローマ皇帝の権威は失墜し、ゲルマン民族の諸部族の国家が次々と帝国内に建国されることになる。
423年にはホノリウス帝が没し、その後の西ローマ皇帝も短命であった。さらに、傭兵として雇われていたゲルマン人が将軍となって、実権を握るようになる。つまり、ゲルマン人の侵入をゲルマン人が防御するという不思議な状態に陥るのだ。そして476年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルは、当時の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥス(在位:475~476年)を退位させ、オドアケル自身が王を名乗ることで西ローマ帝国は滅亡する。