Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

Icons Revisited

2010-02-25 | Media
"An endangered heritage
The days may be numbered for Lawrence Halprin's Heritage Park." (Dalas/Fort Worth)
By Michal G. Tincup, ASLA (Source: Landscape Architecture June 2009)

LA誌のこの連載記事(ただし不定期)は毎回本当に興味深く読ませてもらっている。
使われないことを「デザインの責任」に帰するのは早計なのであって、
この手の「遺産」をいかに残していくか、そのための論理と世論を形成することは
創ることにもまして創造的な行為だと思うしだい。

Janine meets Paavo

2009-12-21 | Media


ヤンセンのヴァイオリンが聴きたかったというよりも、
ヤルヴィ/カンマーフィルのベートーヴェン、デッカ録音が聴きたかった。

やはりRCAとは違う。
DECCAの音については最近思うところが多々あるが、
長くなるのでいずれまた、、、

演奏については、ヤルヴィ/カンマーらしく、
ヴィブラート控えめ、メリハリの効いたデュナーミク、
スリムではあるけれどもシンフォニック(これはライナーに書いてあるとおり、
レーベルの違いによるのであろう。やはりDECCA録音の成せる業?)。

一方のヤンセンは、流麗なヴィブラートで、
しなやかに、ときに熱くヤルヴィ/カンマーに絡むのだが、
オケとの妙な一体感がある。

重厚さはないけれど、コンテンポラリーなベトコンという感じで
ボクはとてもよいと思う。

ブルックナーごときにしてやられてしまう実景の不甲斐なさについて

2009-12-15 | Media


新幹線で浜松駅を出発するとほどなく車窓には田園地帯が広がる。本を読むほどの気力もなく、といって眠ってしまうほどに疲れていたわけでもなかったので、何の気はなしにiPhone/iPodでブル8(このときは確かテンシュテット/LPOの1981年ロンドンライブ)をセレクトした。アダージョからフィナーレへ。いきなり音楽の世界に引きずり込まれる。視界に飛び込んでくる田園風景はあって無いようなもので、音楽が表象する意境を前に実景は不甲斐なく消え去ってゆく。むろん、人によって、ロックや流行歌、ジャズやR&B、アンビエントその他諸々、ジャンルを問わずあっちの世界に連れて行ってくれる音楽というのはそれぞれあるだろう。だから別段クラシックが一番とか、ブル8が一番というつもりは毛頭ない。

しかし、では、クラシックというジャンルにおいてそのような楽曲はなにかと考えてみると、一つにはブル8をあげることに大方の異論はあるまい。超弩級のぶっ飛び音楽なんである。そのくせ、ブルックナーというのは、(演奏によっては)スペクタクル映画やファンタジー系の映画音楽の如く、壮大ではあるけれども妙に俗っぽく響いてしまうこともままあり、けっこう難しいと思う。そんなこんなで久しぶりにブル8に浸っていたところ、とんでもないCDが登場した。シモーネ・ヤング/ハンブルグ響のブル8である。スケールはでかい。でかいがやはりどこか男性指揮者のそれとは異なる。こーゆーマニアックなオタク音楽に女性がまともに取り組んでいる、いや、軽くいなしているのかもしれない。そこがカッコよくもある。

それはそれとして、、、音楽なんか聴いてられっかよ、って気にさせる実景がほんとうに少ねぇ~な、この国は。

ある偉大な芸術家の想い出のために

2009-12-12 | Media


いい。

とくにマイスキーのチェロが効いてる。
めずらしく落ち着いたラン・ランのピアノもいい。

けど、紅鮭、いや「紅いジャケ」はベタすぎるだろ!

旧ソヴィエト出身のマイスキー、ロシア出身のレーピン、中国出身のラン・ラン、
3人に共通するのは(作曲者も含めて)、いずれも旧東側諸国の出身であり、
そして、その象徴たるものがまさに「赤」ということか? 

いかにも西側(というかレコード会社)の人たちが考えそうなこと。

陳腐。

スコティッシュ

2009-11-28 | Media
 

アッバド/ロンドン響84年録音の「スコッティシュ」。日本では「スコットランド」と表記されるけれど、正確には「スコティッシュ」。間違えないでほしいものだ。メンデルスゾーンが同曲の出だしの楽想を得たといわれるメアリ女王の旧居ホリルード宮殿(エディンバラ市)は、僕のフラットから歩いて10分もかからない距離にあったから、この曲のリアリティはすごくよく分かる(ような気がする)。

といってもメンデルスゾーンが訪れた1829年のホリルードは、荒れ果てた遺跡然としていたようだから、今日のキレイに整備された観光地とはかなり様子を異にしていたはず。でも昔の雰囲気はだいたい想像がつく。そういう想像をいとも簡単に許してくれるのがイギリスというところだ。だから今のホリルードを前にしてこの音楽を聴いても違和感はほとんどない。しかし、メンデルスゾーンが佇んだホリルードの目の前には、いまやスコットランド議会棟(設計は故エンリック・ミラーレス)が圧倒的な存在感を誇る。彼がこの建造環境をみたらなんというか。

一方、ヘブリディーズ諸島といえば、スカイ島には足を伸ばしたけれども、「フィンガルの洞窟」(スタファ島)にはついぞ訪れる機会に恵まれなかった。残念。

ところで、「スコッティシュ」にはかねてより「イタリア」がカップリングされることが多い。全くの個人的見解だが、これだけはどうか勘弁願いたい。「イタリア」が嫌いなのではない。両者は食い合わせが悪すぎると思うのだ。曲想も正反対。いやだからこそ組み合わせとしてはイイ、という考え方はまあ理解できる。だけど僕はダメだ。スコッティッシュの余韻に浸っていると、あの妙に軽快なイタリアの出だし。やめていただきたい。雰囲気まるつぶれ。

そのへんのことをよく分かっているレコードが出た。シャイー/ゲヴァントハウス管の新譜「メンデルスゾーン・ディスカヴァリーズ」。収録曲は、スコティッシュ(なんと1842年ロンドン稿)、スコティッシュ冒頭のスケッチ(1829年)、ピアノコンチェルト3番ホ短調(マルチェロ・ブファリーニ補完版)、序曲ヘブリディーズ諸島作品26フィンガルの洞窟(1830年)という凝ったつくり。シャイーはイタリアンだが、「イタリア」は入ってない。さすが。

演奏はまあまあ。

こりゃパンソリじゃない!

2009-09-28 | Media


インチョン国際空港で何気なく手にしたCD。副題の East to West の意味するところをちゃんと理解せずに買ったものだから、CDを再生してみて、最初にヴィブラフォンの音が聞こえてきた時は正直たまげた。というより、がっくりした。さらに聴き進めていくと、サキソフォンは朗々と吹きまくるは、トランペットは咆哮するは、ベースはぶんぶん唸るは、なんともはやあいた口がふさがらない。それどころか、ソリックンとプクよりも、伴奏(西洋の楽器ども)のほうが目立っていて、やかましいことこのうえない。

ブックレットを見てみる。ななんと、西洋楽器の演奏者はもちろん、プロデュースとアレンジがウェスタンな人たちじゃないか。道理で。しかしそんなことジャケットにはまったく書かれてない。ヒドイ。。。で、副題である。そう、副題は正しかったのだ。やれやれ。

とはいうものの、このCD、副題どおり、西洋によるパンソリ理解の音楽として聴けばまことに興味深いものがある。事実、聞きやすい音楽に仕上がっていることは間違いない。伝統的なパンソリとはかけ離れているけれど。。この演奏を、詞の意味の理解不足(あるいは理解不能)に起因する外面的な演奏などと批判することは容易いが、それは東洋における西洋音楽理解でもまったく同じこと。

思うに、「外」のものごとを取り入れる場合、とりあえず彼の意味を捨象し、我の文脈に照らして理解してみるのが手っ取り早い。鈴木淳史さんは、日本人によるクラシック演奏を引き合いに出して、そのような態度を「萌え」と定義し、日本(人)の文化受容の特徴だと言ったけれど、それは日本だけの特徴ではないと思う。あっちの人々にもそれは当てはまるんじゃないか。このCDを聴きながらそんなことを考えた。

パンソリのことをぜんぜん書いてなかった。パンソリはすばらしいです。僕がこの音楽を知ったのは、1993年の「風の丘を越えて:西便制」という韓国映画を通じて。パンソリを主題とした映画です。必見。そして必聴。

古楽器は「目的」にあらず

2009-09-17 | Media


古楽器演奏は手段である。シュタイアーはそう考えているに違いない。であるからこそ、現代的にも強烈にアピールする演奏を現出できるのだろう。まるでモーツァルト自身が即興演奏を繰り広げているかのようで、手垢にまみれたモーツァルトが、アラ・トゥルカが、ぼろぼろと崩れ落ちていく。なんとも爽快。

しかし、おそらくは、この演奏を聴いて、目を白黒させる御仁のほうが多いんであろう。で、そういう連中はこの演奏に「個性的」という烙印を押す、と思う。たぶん。個性的とは、己が許容範囲を超えたなにものかに対して、己が鈍感さを覆い隠すために与えられる形容である。いや、とんでもなく説得力のある演奏だと思うけどな。。。

やはり買ってしまったヤルヴィの第9

2009-08-31 | Media


「音楽祭やそれに類似した機会があると、決まって公的な人間が演説を行うが、そうした演説では、音楽の持つ国際的な性格、諸民族を結びつけるその本質がほめそやされる。(中略)それらからは何やら心地よいものが発散してくるが、それは、冷戦中の各国が地震のあとの援助活動に共同で参加したり、あるいは、ヨーロッパの医師が遠隔の地で、見てくれといわんばかりに現地人の診療をするのに似ている。」(Th.W.アドルノ、高辻知義・渡辺健 訳「音楽社会学序説」)

というようなニュアンスはこの演奏からはまったく聴こえてこない。むろん、どこかの国で暮れになるとよく聴かれるそれともぜんぜん違う。

フォルテピアノに開眼

2009-08-29 | Media


スタンリー・ホッホランドの新譜。
このレコードは買い!

それにしてもアツイじいさんだ。
「フォルテピアノ界のブレンデル」とのこと。
たしかにルックスは似てるが、
ブレ爺よりよほどお盛んとみた。

こういうフォルテピアノはいいな。

収録曲はシューベルトの
・20番ソナタ イ長調 D959
・12のドイツ舞曲 D790より抜粋
・3つのピアノ曲 D946

全部いい。

冒頭のソナタでしっとりしたあと、
その緊張を解きほぐすかのように
リラックスしたダンスが続き、
最後は重すぎず軽すぎず
即興曲でしめる構成がまたよい。