公益財団法人都市計画教会発行「新都市」3月号(第68巻 第3号)(通巻806号)の特別企画「東日本大震災 復興まちづくりのこれからに向けて(14)」に表題の論説(pp.45-47)を寄稿しました。雑誌目次
攪乱を受け入れるまちづくり/千葉大学大学院園芸学研究科 木下剛
1.攪乱としての津波
東日本大震災における空前の被害は、生態学の理論によってその蓋然性を説明できる。表題に掲げた「攪乱」とは一般には対象をかき乱したり混乱させたりすることだが、生態学の分野では生態系の構造や生物の生育環境を大きく変える外的なストレスを意味する。具体的には、台風・洪水・地滑り・地震・津波・山火事・噴火等々の自然現象であるが、人間活動も生物にとっては大きな攪乱要因になりうる。しかし、攪乱は生態系にとって必ずしも悪いことばかりではない。攪乱は特定の生物が優占し利用していた資源を解放し、排除されていた他の生物の再生を促すことで生物の多様性に貢献するからである。
このように攪乱をとらえると、被災地では直近で二度の攪乱が起きていることになる。一度目は人間の生産活動による攪乱である。今次津波の浸水区域は近代に人間の生産・生活の場となったところがほとんどであり、それ以前は湿地や砂州もしくは農業的な土地利用に限定されており、多様な生物種が生息する環境であった。つまり人間が他の生物を競争的に排除しいわば「優占種」となった土地であるが、そこへ二度目の攪乱(津波)が襲った。今度は逆に人間が土地を追われ、人間から解放された大地に逞しく植生が復元している。蛇足ながら、上述した自然現象はそれ自体では災害ではない。そこに人間が介在することで自然災害と呼ばれる。
海辺の土地で人間が「優占種」となり得たのは攪乱(津波)の頻度が極めて低いからである、と生態学的には説明できる。人間のハビタット(生息場所)が優占的に形成される一方で、海辺が本来有していた生物の多様性は失われてきたであろう。今次津波の被害の状態はしばしば「壊滅的」と形容されるが、そのように形容される前提として人間が優占する多様性に乏しいハビタットに覆われた景観があっただろう。
では、攪乱による被害を最小化するにはどうしたらよいか。一つには、人間の優占度を弱める―生物の多様性を高める―ことで潜在的な被災区域自体を減らすという方法が考えられる。いま一つは、攪乱そのものを排除する方法である。一般に自然界では攪乱は避けがたいものであるが、人間は技術力によって攪乱を抑制してきた。防潮堤は攪乱(津波)を抑制する手段であり津波防災の主軸とみなされてきたが、今回の震災ではその限界も露呈した。そこで一つの画期的な判断が下される。数百年から千年に一度の頻度で発生する最大クラスの津波(レベル2津波)を想定し、それにかんしては堤内地への浸水を許す、という決断だ。レベル1津波とレベル2津波の仕分けの根拠や設計津波の水位の設定の妥当性はともかく、「攪乱を受け入れるまちづくり」の布石が打たれたものと理解したい。
2.レベル2津波の生態学的な意味
私がレベル2津波の想定が画期的だと思うのは防災施設に対する考え方の変化ではなく生態学的な意味においてである。つまり攪乱の許容は、先述したように、人間による独占から資源を解放し、種の多様性を高めることで人間への攪乱の影響を低減する。では人間による独占から資源を解放するとは具体的にどのような事態を指すかといえば、それこそが建築制限~土地利用転換(高台移転)である。ちなみに高台移転は防潮堤によらずに攪乱を回避できる手段でもあるが、このことの人類生態学的な意味については後述する。先に自然界では攪乱は避けがたいと述べたが、生態学の知見によれば、自然に生じる攪乱を人工的に抑制することは様々な弊害をもたらす場合がある。
森(online: asm-disurbance.html) によれば、洪水が頻繁に起こる地域で農地転換のために水路を作り洪水を抑制しようとした結果、旱魃や地域の生物相の絶滅の危機、農地排水による富栄養化などが生じた例がある。これは、旱魃や洪水に耐える能力を備えたシステムのレジリエンスを下げてしまったために様々な環境問題が生じたことを意味しており、生態系と人間社会を切り離して考えることには無理があると指摘している。レジリエンスとは、生態学の分野では、攪乱に対する生態系の抵抗力・回復力・安定性を指す。攪乱の許容は人間社会や生態系のレジリエンスを高めるための逆説的前提であると考えられる。
攪乱を抑制しようとしたけれども、想定外の被害を招いてしまった原因としての人間活動を単純に否定するのは建設的ではないし、また攪乱を受け入れることは人間活動の否定を意味するわけでは全くない。しかし、人間による優占が結果的に大きな被害を招いてしまったという側面については十分理解しておく必要があるだろう。レベル2津波を想定する(堤内地への浸水を前提とする)ことの生態学的な意味―生物多様性とレジリエンスの獲得―をもっと認識したうえで我々は震災復興や事前復興に臨むべきではないだろうか。
3.下絵としての地形・地質
攪乱を受け入れるまちづくりと一口に言っても、どこにどのように受け入れるかは慎重な検討が必要である。津波の影響を受ける頻度や被害の程度は浸水区域において決して一様ではない。その違いは概ね地形(標高含む)や地質によって規定される。これらを勘案し、最も攪乱の発生頻度が高く、より大きな被害が予想される区域を、攪乱を受け入れる場所(人間による独占を解除する場所)として選定すべきである。ところが被災地ではそれらの区域はこれまでたんなる生活の場ではなくむしろ生産(水産業や水産加工業)の場として機能してきた歴史がある。このような現実を尊重し、攪乱の発生頻度が相対的に高い区域から低い区域に居住機能を移転したり(職住分離)、より重要な生産工程やストック機能を移転したりすること(リスク分散)で攪乱の影響を低減しようとする方法がとられている(木下ほか,2012)。自然界や生物の世界においても、生産(採餌)の場は生活や繁殖の場(巣)よりも危険な場所に求められることが多い。したがってこうした高台移転は生態学的に見ても理にかなった対応といえるのだ。
しかしながら、被災地での実際の復興状況をみると不十分な点も散見される。地形・地質の特性を細やかに読み込んで攪乱の発生頻度や被害規模を予測し、その結果をふまえて土地利用を検討する姿勢が十分とは言いがたいからだ。地質の違いや過去の土地利用履歴が被災の程度に影響していることは明らかなのに、そのことが土地利用計画に反映されていない。形成年代が古く相対的に地盤が強い地層上および攪乱の発生頻度が低い場所での土地利用を進め、その逆の場合には土地利用の密度を低めるかもしくは終息させる(例えば公園緑地への土地利用転換)等のゾーニングが徹底されるべきだが(木下・芮,2013)、実態はなかなかそうなっていない。攪乱のリスクヘッジを結局、巨大防潮堤や土地の嵩上げなどの土木的手法に頼ってしまっており、人間の優占度を弱める(生物多様性を高める)ことでレジリエンスを獲得するという考え方が土地利用やインフラの計画にあまり展開されていない。例えば、高台移転の計画があるにもかかわらず巨大防潮堤が建設されるなど、レベル2津波の堤内地浸水を前提としたことの生態学的な意味と震災復興の実践とがミスマッチを起こしている。
4.高台移転について
震災後に高台移転の構想が議論され始めるとすぐさま批判も寄せられた。曰く高台居住と漁業は相容れない、にもかかわらずプランナーはすぐ大きな絵を描きたがる。曰く海辺の街を捨て地域社会を否定することである云々。高台移転にそのような側面があることは否定できないが、生物としての人間が為す行いとしての高台移転は極めて合理的なものであるということは改めて強調しておきたい。なにより、今次津波の浸水区域の多くは少し前まで人々が居住を避けてきた場所であることがそのことを如実に物語っている。また、被災地では移転先の高台を造成中に古代の遺跡が発見され工事を遅らせているだけでなく、文化財の保護を指摘する意見もあると聞く。しかしこの出来事を人類生態学的に捉えるならば、現代人と縄文人がハビタットの立地選定を巡って同じ地平に立ったことを意味する。現代人による高台への「再居住」である。
その一方で、高台住宅地の敷地計画については両手を挙げて評価しがたい面もある。それは、高台移転が新たな人為的攪乱の原因とならないよう自然環境・歴史文化への配慮を徹底すべきなのは言うに及ばず、想定されている地域社会の像が見えにくい(都市的な地域社会を前提としているかのような)プランだからである。現行のプランを見るかぎり、高度経済成長期にその大規模な土地造成と自然破壊によって批判された丘陵地開発とさして変わるところがない。伝統的な土地所有形態を残す社会的共通資本としての山林の開発であることや、人口減少局面に入ったリアス式海岸の集落移転であることを考えると、流動性の高い資産としての土地を前提とした都市的な開発手法がそのまま適用できるとは到底思われないのである。高台移転は攪乱を受け入れるまちづくりを体現する主要な手段の一つであり、地域社会の意志決定にもとづいている。その貴重な決断にしっかり応える計画・事業にしたい。
5.復興公園について
メモリアルパークと称して津波浸水区域で行われている都市公園の整備やその他の復興公園の計画・事業についても指摘しておきたいことがある。震災の記憶として遺構や遺物を公園の中で保全することは復興公園の役割としてあってよい。しかし、攪乱を受け入れるまちづくりというコンセプトに応えるものではない。いみじくも国土交通省(2012)は、津波防災において求められる公園緑地等の機能として、多重防御の一つとしての機能(津波の減衰、湛水の場、漂流物の把捉)を位置づけた。攪乱を受け入れるまちづくりにおいてはまさにこうした公園緑地が求められると思うが、計画事例はそれほど多くはない。このような公園では、攪乱という自然現象をどのようにデザインにとり込み、人間の独占から解放された資源とそれを利用して再生する生態系をどのようにデザイン/マネジメントしていくか、極めて動態的なアプローチが求められる。そこでは、都市施設・人工公物としての管理という視点ではなく、水域と陸域を一体的に捉えた自然再生のための公園緑地、自然公物としての管理という発想がもっと必要になると考えられる。
また、鷲谷(2011)によれば、今回の震災のような大規模攪乱の場合、生態系の回復には人間活動の負の遺産が影響を与える。例えば、人間活動由来の攪乱に適応している侵略的外来生物や大量の瓦礫がつくる特異な環境をハビタットとして利用できる動植物、環境中に放出された化学物質や富栄養化条件に適応した生物、様々な生理活性物質や海底から運ばれた重金属などに抵抗性のある生物等が分布を拡大する恐れもあるという。こうした人間活動の影響により生態系のレジリエンスは劣化していると考えられ、攪乱後の生態系の回復を意図した公園緑地の計画・事業では、これらの負の遺産による影響を可能なかぎり取り除き、土地自然本来の生態系の回復を意図したデザイン/マネジメントを期待したい。
(きのした たけし)
参考文献
木下剛・芮京禄(2013):レジリエントな地域社会の形成とグリーンインフラストラクチャーの意義,都市計画,62(3),38-43
木下剛・高橋靖一郎・石川初(2012):水産業のレジリエンスと景観―漁業の生産施設、生産過程の景観要素としての価値の再評価,公益社団法人日本造園学会東日本大震災復興支援調査委員会編『復興の風景像―ランドスケープの再生を通じた復興支援のためのコンセプトブック』,マルモ出版,40-43
国土交通省都市局・公園緑地景観課(2012):東日本大震災からの復興に係る公園緑地整備に関する技術的指針
森章( 攪乱生態学とは?):http://akkym.net/research/asmdisurbance.html (2014 年2月23 日)
鷲谷いずみ(2011):自然の回復と再生の視点から,日本学術会議公開シンポジウム「フォーラム:東日本大震災による生態系や生物多様性への影響-どれだけの影響があったのか、回復に向けて何を考えるべきか-」講演資料
攪乱を受け入れるまちづくり/千葉大学大学院園芸学研究科 木下剛
1.攪乱としての津波
東日本大震災における空前の被害は、生態学の理論によってその蓋然性を説明できる。表題に掲げた「攪乱」とは一般には対象をかき乱したり混乱させたりすることだが、生態学の分野では生態系の構造や生物の生育環境を大きく変える外的なストレスを意味する。具体的には、台風・洪水・地滑り・地震・津波・山火事・噴火等々の自然現象であるが、人間活動も生物にとっては大きな攪乱要因になりうる。しかし、攪乱は生態系にとって必ずしも悪いことばかりではない。攪乱は特定の生物が優占し利用していた資源を解放し、排除されていた他の生物の再生を促すことで生物の多様性に貢献するからである。
このように攪乱をとらえると、被災地では直近で二度の攪乱が起きていることになる。一度目は人間の生産活動による攪乱である。今次津波の浸水区域は近代に人間の生産・生活の場となったところがほとんどであり、それ以前は湿地や砂州もしくは農業的な土地利用に限定されており、多様な生物種が生息する環境であった。つまり人間が他の生物を競争的に排除しいわば「優占種」となった土地であるが、そこへ二度目の攪乱(津波)が襲った。今度は逆に人間が土地を追われ、人間から解放された大地に逞しく植生が復元している。蛇足ながら、上述した自然現象はそれ自体では災害ではない。そこに人間が介在することで自然災害と呼ばれる。
海辺の土地で人間が「優占種」となり得たのは攪乱(津波)の頻度が極めて低いからである、と生態学的には説明できる。人間のハビタット(生息場所)が優占的に形成される一方で、海辺が本来有していた生物の多様性は失われてきたであろう。今次津波の被害の状態はしばしば「壊滅的」と形容されるが、そのように形容される前提として人間が優占する多様性に乏しいハビタットに覆われた景観があっただろう。
では、攪乱による被害を最小化するにはどうしたらよいか。一つには、人間の優占度を弱める―生物の多様性を高める―ことで潜在的な被災区域自体を減らすという方法が考えられる。いま一つは、攪乱そのものを排除する方法である。一般に自然界では攪乱は避けがたいものであるが、人間は技術力によって攪乱を抑制してきた。防潮堤は攪乱(津波)を抑制する手段であり津波防災の主軸とみなされてきたが、今回の震災ではその限界も露呈した。そこで一つの画期的な判断が下される。数百年から千年に一度の頻度で発生する最大クラスの津波(レベル2津波)を想定し、それにかんしては堤内地への浸水を許す、という決断だ。レベル1津波とレベル2津波の仕分けの根拠や設計津波の水位の設定の妥当性はともかく、「攪乱を受け入れるまちづくり」の布石が打たれたものと理解したい。
2.レベル2津波の生態学的な意味
私がレベル2津波の想定が画期的だと思うのは防災施設に対する考え方の変化ではなく生態学的な意味においてである。つまり攪乱の許容は、先述したように、人間による独占から資源を解放し、種の多様性を高めることで人間への攪乱の影響を低減する。では人間による独占から資源を解放するとは具体的にどのような事態を指すかといえば、それこそが建築制限~土地利用転換(高台移転)である。ちなみに高台移転は防潮堤によらずに攪乱を回避できる手段でもあるが、このことの人類生態学的な意味については後述する。先に自然界では攪乱は避けがたいと述べたが、生態学の知見によれば、自然に生じる攪乱を人工的に抑制することは様々な弊害をもたらす場合がある。
森(online: asm-disurbance.html) によれば、洪水が頻繁に起こる地域で農地転換のために水路を作り洪水を抑制しようとした結果、旱魃や地域の生物相の絶滅の危機、農地排水による富栄養化などが生じた例がある。これは、旱魃や洪水に耐える能力を備えたシステムのレジリエンスを下げてしまったために様々な環境問題が生じたことを意味しており、生態系と人間社会を切り離して考えることには無理があると指摘している。レジリエンスとは、生態学の分野では、攪乱に対する生態系の抵抗力・回復力・安定性を指す。攪乱の許容は人間社会や生態系のレジリエンスを高めるための逆説的前提であると考えられる。
攪乱を抑制しようとしたけれども、想定外の被害を招いてしまった原因としての人間活動を単純に否定するのは建設的ではないし、また攪乱を受け入れることは人間活動の否定を意味するわけでは全くない。しかし、人間による優占が結果的に大きな被害を招いてしまったという側面については十分理解しておく必要があるだろう。レベル2津波を想定する(堤内地への浸水を前提とする)ことの生態学的な意味―生物多様性とレジリエンスの獲得―をもっと認識したうえで我々は震災復興や事前復興に臨むべきではないだろうか。
3.下絵としての地形・地質
攪乱を受け入れるまちづくりと一口に言っても、どこにどのように受け入れるかは慎重な検討が必要である。津波の影響を受ける頻度や被害の程度は浸水区域において決して一様ではない。その違いは概ね地形(標高含む)や地質によって規定される。これらを勘案し、最も攪乱の発生頻度が高く、より大きな被害が予想される区域を、攪乱を受け入れる場所(人間による独占を解除する場所)として選定すべきである。ところが被災地ではそれらの区域はこれまでたんなる生活の場ではなくむしろ生産(水産業や水産加工業)の場として機能してきた歴史がある。このような現実を尊重し、攪乱の発生頻度が相対的に高い区域から低い区域に居住機能を移転したり(職住分離)、より重要な生産工程やストック機能を移転したりすること(リスク分散)で攪乱の影響を低減しようとする方法がとられている(木下ほか,2012)。自然界や生物の世界においても、生産(採餌)の場は生活や繁殖の場(巣)よりも危険な場所に求められることが多い。したがってこうした高台移転は生態学的に見ても理にかなった対応といえるのだ。
しかしながら、被災地での実際の復興状況をみると不十分な点も散見される。地形・地質の特性を細やかに読み込んで攪乱の発生頻度や被害規模を予測し、その結果をふまえて土地利用を検討する姿勢が十分とは言いがたいからだ。地質の違いや過去の土地利用履歴が被災の程度に影響していることは明らかなのに、そのことが土地利用計画に反映されていない。形成年代が古く相対的に地盤が強い地層上および攪乱の発生頻度が低い場所での土地利用を進め、その逆の場合には土地利用の密度を低めるかもしくは終息させる(例えば公園緑地への土地利用転換)等のゾーニングが徹底されるべきだが(木下・芮,2013)、実態はなかなかそうなっていない。攪乱のリスクヘッジを結局、巨大防潮堤や土地の嵩上げなどの土木的手法に頼ってしまっており、人間の優占度を弱める(生物多様性を高める)ことでレジリエンスを獲得するという考え方が土地利用やインフラの計画にあまり展開されていない。例えば、高台移転の計画があるにもかかわらず巨大防潮堤が建設されるなど、レベル2津波の堤内地浸水を前提としたことの生態学的な意味と震災復興の実践とがミスマッチを起こしている。
4.高台移転について
震災後に高台移転の構想が議論され始めるとすぐさま批判も寄せられた。曰く高台居住と漁業は相容れない、にもかかわらずプランナーはすぐ大きな絵を描きたがる。曰く海辺の街を捨て地域社会を否定することである云々。高台移転にそのような側面があることは否定できないが、生物としての人間が為す行いとしての高台移転は極めて合理的なものであるということは改めて強調しておきたい。なにより、今次津波の浸水区域の多くは少し前まで人々が居住を避けてきた場所であることがそのことを如実に物語っている。また、被災地では移転先の高台を造成中に古代の遺跡が発見され工事を遅らせているだけでなく、文化財の保護を指摘する意見もあると聞く。しかしこの出来事を人類生態学的に捉えるならば、現代人と縄文人がハビタットの立地選定を巡って同じ地平に立ったことを意味する。現代人による高台への「再居住」である。
その一方で、高台住宅地の敷地計画については両手を挙げて評価しがたい面もある。それは、高台移転が新たな人為的攪乱の原因とならないよう自然環境・歴史文化への配慮を徹底すべきなのは言うに及ばず、想定されている地域社会の像が見えにくい(都市的な地域社会を前提としているかのような)プランだからである。現行のプランを見るかぎり、高度経済成長期にその大規模な土地造成と自然破壊によって批判された丘陵地開発とさして変わるところがない。伝統的な土地所有形態を残す社会的共通資本としての山林の開発であることや、人口減少局面に入ったリアス式海岸の集落移転であることを考えると、流動性の高い資産としての土地を前提とした都市的な開発手法がそのまま適用できるとは到底思われないのである。高台移転は攪乱を受け入れるまちづくりを体現する主要な手段の一つであり、地域社会の意志決定にもとづいている。その貴重な決断にしっかり応える計画・事業にしたい。
5.復興公園について
メモリアルパークと称して津波浸水区域で行われている都市公園の整備やその他の復興公園の計画・事業についても指摘しておきたいことがある。震災の記憶として遺構や遺物を公園の中で保全することは復興公園の役割としてあってよい。しかし、攪乱を受け入れるまちづくりというコンセプトに応えるものではない。いみじくも国土交通省(2012)は、津波防災において求められる公園緑地等の機能として、多重防御の一つとしての機能(津波の減衰、湛水の場、漂流物の把捉)を位置づけた。攪乱を受け入れるまちづくりにおいてはまさにこうした公園緑地が求められると思うが、計画事例はそれほど多くはない。このような公園では、攪乱という自然現象をどのようにデザインにとり込み、人間の独占から解放された資源とそれを利用して再生する生態系をどのようにデザイン/マネジメントしていくか、極めて動態的なアプローチが求められる。そこでは、都市施設・人工公物としての管理という視点ではなく、水域と陸域を一体的に捉えた自然再生のための公園緑地、自然公物としての管理という発想がもっと必要になると考えられる。
また、鷲谷(2011)によれば、今回の震災のような大規模攪乱の場合、生態系の回復には人間活動の負の遺産が影響を与える。例えば、人間活動由来の攪乱に適応している侵略的外来生物や大量の瓦礫がつくる特異な環境をハビタットとして利用できる動植物、環境中に放出された化学物質や富栄養化条件に適応した生物、様々な生理活性物質や海底から運ばれた重金属などに抵抗性のある生物等が分布を拡大する恐れもあるという。こうした人間活動の影響により生態系のレジリエンスは劣化していると考えられ、攪乱後の生態系の回復を意図した公園緑地の計画・事業では、これらの負の遺産による影響を可能なかぎり取り除き、土地自然本来の生態系の回復を意図したデザイン/マネジメントを期待したい。
(きのした たけし)
参考文献
木下剛・芮京禄(2013):レジリエントな地域社会の形成とグリーンインフラストラクチャーの意義,都市計画,62(3),38-43
木下剛・高橋靖一郎・石川初(2012):水産業のレジリエンスと景観―漁業の生産施設、生産過程の景観要素としての価値の再評価,公益社団法人日本造園学会東日本大震災復興支援調査委員会編『復興の風景像―ランドスケープの再生を通じた復興支援のためのコンセプトブック』,マルモ出版,40-43
国土交通省都市局・公園緑地景観課(2012):東日本大震災からの復興に係る公園緑地整備に関する技術的指針
森章( 攪乱生態学とは?):http://akkym.net/research/asmdisurbance.html (2014 年2月23 日)
鷲谷いずみ(2011):自然の回復と再生の視点から,日本学術会議公開シンポジウム「フォーラム:東日本大震災による生態系や生物多様性への影響-どれだけの影響があったのか、回復に向けて何を考えるべきか-」講演資料