和尚の大和路

和尚が撮った大和路写真を中心に、
旅で見つけた写真なども・・・

野見宿禰

2011-11-17 17:08:05 | カメラ
桜井浄水場の柿がひときわ輝いていました。


伊勢街道というキーワードを持って歩いていると、
色々なものが見えて来ます。

野見宿禰

一番最初に相撲を取ったのは野見宿禰と当麻蹶速(けはや)と言われています。
垂仁天皇の頃、垂仁7年7月7日、フィーバーですね。
勝負事にはええ日らしい。
東、野見宿禰と西、当麻蹶速が無制限死ぬまで一本勝負で野見宿禰はんが勝った。
当麻蹶速はんは腰の骨を砕かれ、天国に召されたそうです。
日本書記の話ですが、これとよく似た事実(土地の平定等)はあったでしょう。
相撲を取った場所というのが相撲神社。
桜井市纒向の穴師兵主神社の入口にその相撲神社はあります。
野見宿禰はんは島根の出雲からわざわざ来はったことになっていますが・・・。

はたしてそうやろか、が今日の本題です。

前々から気になっていた地名、「出雲」。
国道165号沿い、初瀬の西隣に出雲という地名があります。
地名なんか知らんわ、と言われる方、
岩坂、狛に入る交差点名に出雲の名前があるのをご存知でしょう。
小さい交差点ですがよく引っかかります(赤信号で)。
その度に連想させられるのは
堺の出雲大社分祠、亀岡の出雲大神宮、島根の出雲大社です。
毎回のことですので、出雲の古代パワーが
和尚に何かを呼びかけているのかもしれましぇん。

そこで伊勢街道ですが
昔の面影が残っている街道筋を少しずつ歩いています。
十二柱神社(じゅうにはしら)にやって来ました。



狛犬の台座の下を見てください。
4ヶ所で誰かが支えています。
近寄ってみましょう。

お相撲さんです。


野見宿禰顕彰会の建てた碑です。
池田雅雄先生が45年ほど前に野見宿禰の出雲出身は
実は桜井の出雲村のことではないか、と言われてから
伝承、口承、昔からの生産などを検証して桜井の出雲村にたどり着きました。
これらのことを知るにつれて和尚も池田雅雄先生の説になるほどと感じました。

ここからは想像力の世界です。
出雲のことですが、
垂仁天皇の時代に島根の出雲からヤマトの国に移り住んだ集団がありました。
天皇から居住地を与えられ、その居住地を島根の国の名前と同じ出雲と名乗った。
それが桜井の出雲です。
歴史的事実として遠く離れて移住する時は出身の地の名前を使うことがあります。
例えば、北海道開拓時代の地名は屯田兵の出身の地名を多く用いていました。
明治の大水害による十津川村民の移住では行政名(新十津川村)まで残っていますから、
おらが生まれた土地の名を使っても、何ら不思議はありません。

八講桜のある谷を今井谷と言います。
今井谷の由来は
橿原の今井町の住人が談山神社のご利益があるようにと、
神社に出来るだけ近くに居を構えました。
それ以降この谷を今井谷と言うようになったと聞きました。
近くですら出身地の名前が残っているくらいですから、
遠くはなれた地ではなおさらです。

そのように考えていくと

日本書記の島根の出雲から召喚された野見宿禰さんは
実は桜井の出雲村から召喚されたのです。
相撲を取らす為にわざわざ遠くの出雲から召喚することはないでしょう。
相撲神社へは2時間もあれば着きます。
当麻蹶速さんは4時間ぐらいかかります。
相撲を取る時は当麻蹶速さんのほうが歩き疲れていたと言えます。
まあ、出雲の勢力がヤマトにも強力にあったのでしょう。
たかが相撲といえども、勝った野見宿禰さんは当麻地方を支配しました。
野見宿禰さんから見れば島根の出雲でも桜井の出雲でも、どちらでもいいのです。
出雲勢力の実績さえ確かなものであれば・・・。

野見宿禰さんは立派な人(神様?)で
古墳の人身御供を埴輪に替えたことでも知られています。
菅原氏(菅原道真等)の先祖とも言われています。

このように好き放題考えて、伊勢街道を旅しています。

昭和の悪政として住居表示の変更があります。
地名は文化であると考えるならば住居表示は
その文化の否定になります。
京都や奈良は古い地名が多いです。
少しでも多く残るようにしたいですね。
地名が全く消える訳ではありません。
住居表示には経過資料として新旧対照図が残されていますが
200年、500年経って調べるとなると大変な作業です。

濡れ地蔵

濡れ地蔵は室生湖の北はずれにあります。
大字山辺三は額井岳中腹から室生湖まで含まれます。
全戸90軒ほどらしいのですが、昔から年中行事が残っており、
調べたら面白そうです。
濡れ地蔵のところは伊勢街道のルートになっています。