GENKIさんからのトラックバックより
このブログを通じて、僕の故郷の方と出会いました。
8年前、福岡まで祖母のお葬式に出た後、育った広島の地を訪ねました。
計画を立てた旅ではく、思いもよらない不思議な経過を残しておこうと記憶をたどりながら当時綴ったものです。
三日目、最終章です。
空腹感はあるが、夜まで我慢しょう。
食べ終えるともと来た防波堤伝いに歩き始めた。
すると、不思議な光景を見た。牡蠣殻を乗せたベルトコンベア―に行儀良くカモメなのかウミネコが整列し両側に留まっている。何だかベルトコンベア―と一体化している。殻に残った身をついばんでいるのだろう、さっき通った時気がつかなかったのは、やはり人が近づくとスタンディングオベーションか、ドミノ倒しなのか次々と空に舞い上がって行く。
お食事中に申し訳ないね!そういって後にした。
「どこ、行っとったん!」
いきなり声が掛かる。さっきのオバさま達だ。休憩時間なのか手を休めている。
「防波堤の先まで、行ってました…」
実は小学校の頃、この安芸津に住んでたんですよ。と言いかけてやめた。話が長くなりそうだったし、好奇の眼差しにどこまで付いていけば良いのか不安になったからだ。
「牡蠣割りの手さばき素晴らしいですね」
「そうけー!誉められたことなんかねーけんねー」
「四十年もやりゃー、上手くもなるけーのー」
そうなんだ・・
四十年もなんだ。
僕が生まれた時からずーっとなんだ。
「写真良いですか?」インスタントカメラを向けシャッターを押した。
「なんでー!もう撮ったんけー。ええ顔しよう思うとったのに…」
「そうよ!化粧しょうって思うとったのに!」
賑やかな人達だ。
孤独感を味わおうと自分の心に琥珀色のフィルターをかけていたことを恥じた。
「実は小学校までここに住んでたんですよ。」
「そうなんけー!すごいのー。どこも、変わっとらんじゃろー。今はどこに住んどるん?」
「東京です」
埼玉も東京もいっしょだろうか…。
九州の祖母が亡くなったこと。帰りに尋ねてきたこと。暫く話をした後、3キロ入りの牡蠣を宅急便で届けてもらうことにした。クロネコの伝票の住所欄に、浦和市と書いたが何も言われなかった。素敵なオバさま達だった。
そして改めて一人旅を実感した。家族旅行の場合、何ヶ月も前から計画を立て、人工的な観光地を巡り、帰りの午後から、この旅の終わりを感じ、寂しさと疲れが同居し始める。楽しい想い出として残るのだが、テレビ番組のように、なかなか地元の人達との自然の会話は難しい。
旅とは、本来思い掛けないそんなところが良いのだろう。
海を後にしてM米店の前をドキドキしながら通った。初恋の子の家だからである。
今はどうしているのだろう・・いまさら、妻子あるおじさんが、夫あるおばさんを尋ねる訳にもいかない。もちろんここには住んでいないだろうし・・その辺りの良識はあるのだから…。
後ろ髪を引かれる思いで、米屋を通り過ぎ自分が通った幼稚園に向かった。園庭の真中にある銀杏の大木が見たかったからだ。お寺の境内にあって、確か「のの様おはようございます」が、毎朝の挨拶だった。運動会にはその周りをかけっこしたことを思い出した。
近づくにつれ、真っ青な空に色づいた黄色の葉が、民家の瓦から見え隠れしている。息を呑んだ。その大木は威風堂々とそのままでいた。なんと見事な黄葉だろう。街も路もすべて箱庭のように感じていたが、この銀杏の木だけは幼い頃の記憶より迫力があった。
幼稚園の時と同じ様に幹の周りを歩いてみる。そして瘤だらけの太い幹を触れてみた。昨日の、おじいちゃんの手の甲が重なった。
自然と目頭が熱くなって、何かが落ちてこないように空を見上げた。鮮やかな黄色に光が射し、その上に抜ける青、視界が遮られた。どうして今、自分はここにいるのだろう。そして、ここは何も変わってないのだろう。自分だけが、さ迷い、歳を重ねて、やっと戻って来られたという錯覚に、熱いものが溢れてきた。
第三章 おしまい