hiroべの気まま部屋

日ごろの出来事を気ままに綴っています

仏教思想:中国天台思想概要(その3)

2020-05-02 08:14:51 | 仏教思想
 『今朝の天気』


(7:30頃)

 今朝の温度(5:30) 室温 リビング:22.7、 洗面所:23.5、 湿度(リビング):23%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:25.5、最低気温:16.2
  本日の予想気温 最高気温:27、最低気温:16)


 昨日は予報どおり、東京は夏日となりました。今朝もベランダに出て花に水やりをしていると、日差しが暑く額に汗がにじんできました。今日は昨日以上に暑くなるようです。

 さて、中国天台思想概要の続き(第3回)です。
 昨日は暑さもあってか朝から軽い頭痛、こんな時期ですから、まさか!でしたが、今朝起きると治っていました。そんな時になおさら頭が痛くなるような記事ですが、いよいよ本日より本論に入っていきます。かなり難解です。興味のない方は無理せずパスすることをお勧めします。(その1、その2はカテゴリー「仏教思想」にて遡及できます。)

 3.天台思想の概要
 3.1.天台思想の真理
 (1)大乗仏教思想と天台智顗の空観
 ①大乗仏教の「空」とは
  それは、もろもろの存在があい関係しあって変動しているという事実に立脚しています。一口に言って「縁起」ということ。縁起ということは、いかなる存在も独立・固定の実体(我)を有しないということです。つまり無我である。ここから空という観念が生まれたのです。
 空とは、有にしろ、無にしろ、一切の固定観の否定を意味します。非有非無(ひうひむ)・不生不滅(ふしょうふめつ)と称されるゆえんです。
 永遠に実在している(有・生)という考え方をこえるとともに、実在しない(無・滅)という考え方をこえたところに、空ということがいわれるのです。
 空なる真理を少し積極的に表現すれば、無限にして絶対の真理ということになるでしょう。
 精神とか肉体というものは限定的・対立的なものによってではなく、そのような限定・対立をこえたもの(空)によってささえられているからです。この限定・対立をこえたものを少し積極的に表現すれば、無限・絶対なるものということになります。仏教では、これを「虚空(こくう、アーカーシャ)と表現します。

 ②天台智顗の空観
  智顗は、『四教義(しきょうぎ)』にて、空・仮・中の「三締・三観(さんたいさんがん)」と、蔵・通・別・円の「四教」をあげていますが、これは天台法華思想の根底・起点が「空」の観念であることを示しています。
 また、『法華玄義』にて、「絶を論ずるは、有門に約して明すなり。是の絶をも亦絶するは、空門に約して絶を明かすなり」として、真の絶対(絶対の絶対)は空に根ざすものと説いています。
(参考:小乗仏教における空の理解の誤りと真の空の理解 表3-1)
 
 以下、空・仮・中の「三締・三観」、蔵・通・別・円の「四教」をとりあげ、天台智顗の空観を明らかにしていきます。

 (2)「空・仮・中」(三諦)と「三観」
 ①従仮入空と従空入仮
  智顗は、『摩訶止観』(巻第三上)にて、AB二相(現物の諸事物における自他・男女・親子・老若・生死・善悪・美醜・貧富等々の二相)の関係(相依・相関の縁起関係=仮)について説いています。(下表3-2参照)
 

 ②中道第一主義
  智顗は、結果として、従仮入空にとどまらず、従空入仮になずまず、両観双存・双用(すいゆう)でなくてはならいないということ。つまりは、空と仮のいずれにもかたよらず、常に空仮相即の「中」を保持しなければならないということ。空に陥り現実活動の意欲を失ってもいけないが、仮にあって空を忘れてもいけないということを説いています。
 つまり、「双遮双照(そうしゃそうしょう)」がこの中道第一主義にあたるとも説いています。
双遮双照とは、「双遮」と「双照」の両者を合わせたものであり、類似の言葉が種々あるが、簡単に「対揚(たいよう)」などとも呼びます。(下表3-3参照)
 

 ③智顗の止観・三観と三止
  前述の従仮入空・従空入仮・中道第一主義は「三観」について述べられたものです。智顗はこれを止にも適用して、以下のように説いています。(下表3-4参照)
 

 三止三観は、空・仮・中の真理の三様(三諦)を体験・実践の面からいいあらわしたもの。また、便宜上、段階を追って説かれているが、本来は同時(不次第)のものです。(下表3-5参照)
 
 この三止三観を同時的・一体的につかむことを「円頓(えんどん)止観」、ないし「一心三観」といいます。

 なお、「止観」とは、仏教真理習得のための実践法・修行法のことで、「止」と「観」の複合語です。(下表3-6参照)
 


 (3)全体システム-五時八教
  中国には、インドで成立した仏教思想が経典として伝来してきたが、それは経典の成立年代・順序とは関係なく同時に入ってきました。このため、中国ではこれらの経典を整理し、内容の優劣をつける必要が生じたのです。この作業を教相判釈と呼びます。
 天台智顗は、この教相判釈の権威者であり、仏教の諸経教をシャカの説法の次第、順序にことよせて、五段階に配列しました。これを「五時」と言います。
 さらに智顗は、八教(化法四教+化儀四教)という仏教思想の分類法を考案し、五時と融合した「五時八教」と一般的によばれる仏教真理の全体システムを確立しました。

 ①八教とは
  智顗の八教は、前述の空・仮・中の基本カテゴリーを根幹として、仏教の諸思想を分類した「化法四教(けほうしきょう)」と、説法の方法・形式上の分類をした「化儀四教(けぎしきょう)」を合わせたもので、このうち化法四教と、化儀四教のうちの秘密教は智顗の独創によるものです。(下表3-7参照)
 
 

 ②化法四教-蔵・通・別・円-
  智顗は化法四教にて、空・仮・中の基本カテゴリーを根幹として、仏教の諸思想を「蔵(ぞう)・通(つう)・別(べつ)・円(えん)」の4つに分類、真理の深さに応じてランク付けしました。その分類内容を整理すると以下のようになります。(表3-8)
 
 

 ③五時と八教の融合
  智顗は彼の教相判釈として、経典の成立順を五時(『華厳経』・『阿含経』・『方等経』・『般若経』・『法華経』)にて解釈しました。さらに、これと八教を融合させました。(表3-9)
 

 五時に沿って、八教との融合内容を以下に説明します。(表3-10)
 
 
 
 




 本日はここまでです。
 次回は「3.2.天台思想の世界観」についてです。よろしければ、引き続きお付き合いください。






仏教思想:中国天台思想概要(その2)

2020-04-14 08:26:34 | 仏教思想

(調布市・深大寺の庫裏 1/30撮影)




 『今朝の天気』


(7:15頃)

 今朝の温度(6:00) 室温 リビング:18.5、 洗面所:21.5、 湿度(リビング):22%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:10.1、最低気温: 7.8
  本日の予想気温 最高気温:17、最低気温: 7)


 冒頭の写真は、調布市深大寺の庫裏(台所)です。普段は内部は見れないのですが、この日は開放されていました。
 さて、中国天台思想概要の続き(第2回)です。第1回は中国天台思想の実質的開祖者天台智顗(ちぎ)の略歴と中国天台の系譜について年表にてご説明しました。
 この後は、中国天台思想とは、という本題に入っていくわけですが、その前に中国天台思想のもととなった『法華経』についてまずはその概要を説明します。

 2.『法華経』の意義と構成
 2.1.『法華経』の意義
 (1)題目『妙法蓮華経』とは
  『法華経』は『妙法蓮華経』を省略して称したものです。この題目の漢訳は、竺法護(*1じくほうご231-308?)が「正法華経」(286年訳)と訳した「正法」を鳩摩羅什が「妙法」(406年訳)と訳しなおしたものです。(*2参考:Wikipediaより)
 *1竺法護:西晋時代に活躍した西域僧(インド北方の月氏国の出身)で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典にたずさわった代表的な訳経僧。
 *2『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意の漢訳での総称であり、梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い。


 (2)「妙法」とは
  「妙法」は竺法護が訳したように「正しい法」、つまり一般的な仏教用語では「正法」と同意義ということになります。正法は仏教の最高の真理のことをさして使いますが、智顗は、この最高の真理(ここでは「妙法」)について、『法華玄義』(*1)にて以下のように説明しています。
 「妙を喚(よ)んで絶と為す。絶は是れ妙の異名(いみょう)なり」「妙は不可思議と名づく。麁(そ:相対なるもの)に因って名づくて妙と為すにあらず」(以上、巻第二上より)
 以上の意味は以下のとおりです。
 
 
 *1『法華玄義』:智顗は591年玉泉寺において、『法華経』にもとづく哲理と実践を講義し、講義結果は灌頂が筆録した。講義内容のうち哲理(仏教真理)は『法華玄義』としてまとめられた。なお、実践は『摩訶止観』にまとめられた。


 (3)蓮華とは
 智顗は『法華玄義』巻第七下にて、「法華の法門は清浄にして、因果微妙(みみょう)なれば、この法門を名づけて蓮華と為す」としています。
 これは、『法華経』の一般的な解釈と中国独特の現実重視の考えたかを融合したものです。
 ①前半の「法華の法門は清浄にして」について
  『法華経』「従地涌出品(じゅうちゆじゅつぼん)」第十四(第十五)よりの「蓮華が泥沼の中でしか生育せず、しかも泥沼に染まらず、清浄な花を咲かせるごとく、菩薩もまた泥沼の現実におりたちて、そこに真理の花を咲かせるということ」に基づいています。

 ②後半の「、因果微妙(みみょう)なれば、・・・」について
  道生の『妙法蓮華経疏』や、光宅寺法雲の『法華経義記』にて「蓮華は花と実を俱有するとし、そこから、因あれば果あることを例えたもの。(「妙因妙果の法」)」とみなしたことに準じています。因果は現実存在をささえる法則で、それをとりあげたところには、中国一般における現実具体の尊重という思惟傾向がみられるといえそうです。


2.2.『法華経』の構成
 智顗は『法華文句(ほっけもんぐ)』にて、『法華経』を以下の構成と解釈し示しました。
 
 
 

 『法華経』は、もとは27章であったが、天台智顗あたりから、「堤婆達多品(だいばだったほん)」が「見宝塔品(けんぽうとうほん)」(第十一)の次に加わり、現在の28章となったということです。(「勧持品(かんじほん)」(第十二)以下は1章づつ下がることになった)
 道正が因果の二部門に分けて解釈し、智顗もこれに習い、前半(迹門(しゃくもん):「一乗妙法」「二乗作仏」)と後半(本門(ほんもん):「久遠実成」「久遠本仏」)に大きく分けました。智顗は果門の本門を重視しています。
 

 近世では、成立年代から3つ区分する見方もあり、内容的にも三要素に分割できます。
 
 また、28章全体が経典の三分(序分、正分、流通分)構成となっており、迹門、本門それぞれも三分に分かれる構成となっています。



 本日はここまでです。次回よりいよいよ本題の中国天台思想についての説明に入ります。かなり難しくて苦戦していますが、何とか整理してご紹介したいと思います。




(深大寺の庫裏内部)









 


 



仏教思想:中国天台思想概要(その1)

2020-04-04 08:32:22 | 仏教思想

(調布市・深大寺 1/30撮影)




 『今朝の天気』


(8:00頃)

 今朝の温度(6:00) 室温 リビング:19.8、 洗面所:22.0、 湿度(リビング):21%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:18.2、最低気温: 6.4
  本日の予想気温 最高気温:22、最低気温:10)



 冒頭の写真は、地元調布市の深大寺の本堂です。天台宗といっても密教系(台密)のお寺で、今日のタイトルの中国天台とは多少系統が違うのですが、関連がないわけでもないので、冒頭の写真としてみました。

 さて、カテゴリーの「仏教思想」で記事を書くのは7ヵ月ぶりです。昨年8月に、『仏教の思想』(全12巻)の整理が終わりましたという記事(過去記事)をUPさせていただいて、その後何をしようかと思っていてほぼ何もせずに7か月経っていました。
 そこで、そろそろボケ防止に少しは頭を使おうと、その過去記事の時にもお話しした「中国編」4巻の再整理を始めることにしました。主には、天台(法華)、華厳、禅、浄土の各々の宗派の成立、発展に関わってきた高僧を年表形式で整理することです。

 ということで、天台宗からスタートをさせ、やっと年表の作成が終わりましたので、今日はそれをご紹介します。
 もっとも、年表を作成していて、中国天台のことについて結局何も覚えていないということが分かりましたので、年表だけでなく、概要整理もしようということにしました。まあ、言ってみれば復習ということです。ということで、年表からスタートして、この後中国天台思想の概要を整理してご紹介していきたいと思います。

 『仏教の思想5 絶対の真理<天台>』概要
  -中国天台宗・天台智顗の思想-

 1.天台智顗の経歴と中国天台宗の系譜
 1.1.天台智顗の経歴
  538年荊州(けいしゅう湖南省)華容の生まれ、俗姓・陳氏 南朝の名門
 南朝の梁(502-57)の時代に生まれ、陳(557-89)、隋(589-618)にかけて生涯を送った。没は597年、60歳。
 
 
 

 1.2.中国天台宗の系譜
 
 

 中国天台宗は、天台智顗がその思想を確立した実質的な開祖者ですが、智顗の師南岳慧思(えし515-77)のそのまた師である慧文(えもん、生没年不詳、北斎時代の人)を開祖とする考え方もあります。さらに、『法華経』のもととなった「空思想」を確立したインドの思想家龍樹(二世紀)を開祖者とする考え方もあります。このため、龍樹、慧文、智顗の何れを開祖にするかにより、何代目の継承者とするかの数え方も変わっています。
なお、龍樹の著作の漢訳者でインドよりの帰化僧鳩摩羅什も慧文、智顗の思想に大きな影響を与えたと言われています。

 智顗が確立した『法華経』を最高の経典とする天台思想は、二祖の灌頂(かんじょう561-632)に引き継がれますが、次第に衰退(第一期中国天台宗衰退期)します。その後六祖湛然(たんねん711-82))の時に復興し、この頃より華厳宗との対立が顕著となります。
 湛然の後七祖道邃(どうすい、生没年不詳) 、行満(ぎょうまん、生没年不詳))らが引き継ぎます。(両名より日本天台の開祖最澄は天台教学を学びます。)しかし、その後の100年間は第二期の天台宗衰退期となります。
 100年後再び天台宗は復興しますが、宗派内に華厳思想の影響を受けた一派「山外派(さんがいは)」が台頭します。このため、天台宗は本来の天台宗に復帰すべきとする一派「山家派(さんげは)」との間で対立、分裂します。
 分裂後の天台宗は、山家派に中興の祖といわれた四明知礼(しめいちれい960-1028))が出るなど、その後も天台宗本家として引き継がれていきます。一方、山外派はやがて衰退し消滅します。


 本日はここまでです。この後、週一ペースぐらいで整理した結果をご紹介していければと思っています。よろしければお付き合いください。

 なお、概要の内容については、『仏教の思想』(全12巻)をもとに作成したノートからエッセンスを取り出して整理しています。ということで、元資料は『仏教の思想』(全12巻)になっています。この本の文章そのままを多く使用しています。したがって、個人の参考として限定してご利用ください。もちろん、私個人の解釈間違いもあるかと思いますので、その点はご容赦いただき、さらにご指摘いただければ幸いです。



仏教の思想(全12巻)の整理を終える

2019-08-30 08:32:25 | 仏教思想

(深大寺(東京都調布市)本堂横に置かれた「蓮」8月21日撮影)


 現役時代から行っている「仏教の思想(全12巻、インド編・中国編・日本編各4巻)」による仏教思想の学習ですが、引退後に本格化させて、まず2回通読し、その後ポイントと思われるところの抜き書きなど要点整理のノート作りを行い、さらにそのノートを電子化(Word化)する作業をしてきましたが、先日それも終わり、当面考えていた整理が終わりました。10年ほどかかったことになります。

 日本編4巻については、各ノート作成が終わった時点で、それぞれの内容の概要をこのブログでご紹介し、更にword化が終わった時点で、空海(第9巻)と親鸞(第10巻)につてはその補足説明をさせていただきました。その後、道元(第11巻)のword化が5月に、最後の日蓮(第12巻)のword化を先日終えたわけです。そこで、道元と日蓮の補足もと思ったのですが、それぞれの概要整理結果は、内容のレベルは別として、私なりに説明は尽きていると感じていて、この2巻分の補足は無しとしました。(ご興味ある方は、カテゴリー仏教思想より、それぞれ、道元、日蓮の作成ノートの要点整理をご確認ください。)

 仏教思想の学習、本来の目的は「日本の仏教史」的な勉強をしてみたいというのがスタートでした。そこで、日本仏教史といった本も読んだのですが、やはり仏教史の勉強には「仏教思想」そのものの勉強が必要と、適当な本を探していたのです。そこで見つけたのが「仏教の思想(全12巻)」でした。その時はまだ単行本での発行でした。その単行本のインド編4巻分を購入して学習がスタートしたのはまだ現役時代でした。
 現役時代は確か2巻分読んだ気がします。ともかく難しくてよく分からず、途中でこれはインド哲学の勉強が必要と、インド哲学史の入門書を読んだり、哲学そのものの勉強も必要と、哲学入門の本を読んだりもしましたが、結局よく分からず、現役時代が終わり、引退後、仏教の思想の学習に戻ったのです。その時には文庫本が発行されていて、12巻まとめて購入、学習再開となりました。その後は冒頭の記事のように2回通読しましたが全く理解できず、ノート作り、word化と続けて来たわけです。

 で、word化が終わってどうかというと、結果、やはりよく分からいというのが答えです。ですが、日本編4巻での「空海」「親鸞」「道元」「日蓮」の4人の人物像、思想についての私なりの雑感みたいなものをお話し今日の記事とし、word化終了のまとめとしたいと思います。もっとも、学問的裏付けは全くない、個人の感想のようなものですので、その点はご承知おきください。

 仏教の思想日本編4巻で取りあげられた4人の高僧ですが、空海は「中国密教」を土台とした真言密教(真言宗)、親鸞は法然の「浄土宗」を土台とした浄土真宗、道元は「中国禅」を土台とした曹洞禅(曹洞宗)、日蓮は『法華経』を土台とした日蓮宗と、それぞれ日本の各宗派の開祖として、独自思想を確立しています。したがって、個々の思想について語り出すと、これまで整理してきた内容をもう一度説明するということでもとに戻ってしまいます。
 しかし、個々の思想の核心というより、視点を変えてそれぞれの人物像などをみていくと、4人の中に共通点のようなものを感じます。それは「空海」と「日蓮」、それと「親鸞」と「道元」それぞれは何やら似ている、ということです。

 まず、空海と日蓮ですが、空海の曼荼羅世界と日蓮の『法華経』世界は思想的にも近いものです。空海は、仏教真理は法華ー華厳と発展し、真言密教で頂点を迎えた言っています。法然に敢然と挑んだ日蓮も最初は真言宗に対しては寛容でした。真言密教がすべての宗教を取り入れて曼荼羅世界を創造しているのに対して、法華経は他宗派を排斥するという違いがありますが、真言密教の全てを取り込んだ大日如来の曼荼羅世界は、思想的には法華の一念三千(一心に三千世界を含む)の世界と同じ世界です。
 思想的にも近い両者ですが、人物像も近い気がします。それは俗な言い方をすれば「立身出世主義」ということです。両者は国家を語ります。千葉の漁師の息子という、4人の開祖者では唯一下賤な出身の日蓮は、立身出世という家族の期待を一身に受けて出家します。期待に応えるべく幕府のお膝元鎌倉で過激な活動を実行、政府に対しても働きかけます。過激なパフォーマンス、鎌倉仏教界で最後に登場したしかも下級階級の日蓮はともかく目立つ必要があったのでしょう。結果は失敗でしたが、彼にとって唯一の手段だった気がします。
 一方、空海は下級階級ではありませんが、四国讃岐という地方豪族の三男の息子ということで、決して高い身分ではありません。 18歳で上京、24歳で出家宣言、31歳の時に唐への留学生としてのチャンスを得ます。当初の留学期間は20年でしたが、恵果から密教真理の習得を果たすと多くの経典、仏具などを携えてわずか2年で帰って来ます。朝廷には『請来目録』を献上、3年の準備期間ののち、京都で鎮護国家の修法を始め、朝廷特に当時の天皇嵯峨帝との結びつきを強めていきます。やがて、嵯峨帝からは京都の東寺を賜り、鎮護国家の拠点とすると同時に、許可を得て修行道場としての高野山の開発に取り組みます。こうしてみると、日蓮と反対にこの点では成功者だったわけです。

 両者はまた、俗な言い方になりますが、「人たらし」の名人だったように思います。日蓮は幕府に取り入るのに失敗していますが、結果的には「日蓮宗」の開祖として大成功しています。過激な行動で、3度の襲撃、2度の流罪の苦難にあっています。当然弟子などもその苦難の影響を受けています。このため、逃げ出す弟子もありましたが、反面強固な信者も増やしていきます。特に佐渡流罪後の身延での9年間は信者獲得の期間でした。日蓮は信者にせっせと手紙をだしています。その手紙は慈愛に満ちた手紙だったようです。その結果次々と信者は増えていったのです。
 空海は前述のように朝廷との結びつきを強めると同時に、当時の仏教界の支配者旧仏教(南都仏教)とも協調して布教活動を続けたといいます。平安仏教の二大巨頭といえば、空海と最澄(日本天台宗開祖)ですが、二人とも旧仏教から見れば当時の新興宗教であったわけで、排斥の対象でもあったわけです。最澄がこの旧仏教と正面衝突したのに対して、空海はいわば上手くやっていたというわけです。最澄の死後、空海のやり方を見ていた天台宗三祖円仁(慈覚大師)はこれに倣って、日本天台は密教化したといわれています。
 嵯峨帝の空海に対する寵愛は特別のものがあったようです。空海は嵯峨帝に折々の贈り物をしたようです。当然それは高価なのではありません。超天才空海の本領発揮、書や詩歌でした。嵯峨帝は空海のこうした高い教養を愛したのです。



(深大寺山門の茅葺屋根)



 国家主義で人たらしの空海と日蓮に対して、親鸞と道元はどうでしょうか?この両者にはそういった俗っぽさが見られません。逆に「世渡り下手」という気がします。
 それは、生まれから来ているのだと思います。親鸞は幼くして親が失脚していますが、貴族の出身です。道元の父は時の最高権力者源通親でした。母が没落貴族の娘ということで、非公認の子という立場でしたが、それでも何不自由なく暮らしていました。立場の違いはありますが、二人ともいわゆるいいとこのお坊ちゃんという立場でした。
 個人の性格が生まれのみで決まるものではありませんが、この二人はともかく生真面目でした。それは信仰心の深さに表れています。

 親鸞は、叡山での修行で飽き足らないのを感じる中で法然の浄土教を知り、この教えに深く帰依、生涯法然の教えを信じ、それを弟子に説き続けます。その法然の教えそのものが、彼にとっての「真宗」であったわけです。親鸞の死後、親鸞の教えは「浄土真宗」という一派を成立させますが、親鸞自身の意志としては法然の教えの継承者で、一派を起こす意味での「真宗」ではなかったわけです。

 親鸞について考える時、どうしても理解できないことがあります。それは「妻帯」したことです。このことは当時の仏教界では大革命だった気がします。僧は妻帯しない、これは僧としての大前提だった時代です。法然も女犯については戒めています。現実に法然の弟子の女犯の罪が原因で、流罪となった法然に連座して、当時法然の高弟でもなかった親鸞も越後への流罪となっています。それは、当時親鸞が妻帯していたことが大きな要因だったと思われます。その親鸞、流罪先の越後でも妻帯しています。残念ながら、「仏教の思想」の中では、妻帯し子供がいたという事実は書かれていますが、その理由・背景などは全く触れられていません。当然、私にも全く分かりませんが、単純に彼の生真面目さから来ているのかと、かってに想像しています。つまり、「誰でも、信ずる者は救われる。浄土に行ける。」「悪人正機」ということだったのかと。
 いずれにしろ、親鸞の妻帯についてはもう少し調べてみる価値はありそうです。

 一方、道元はどうだったでしょうか。道元も叡山での修行に疑問を感じます。当時の叡山は仏教大学といった場所でしたが、その根本思想は「天台本覚思想」というもので、それは「人は生まれながらにさとっている」というものでした。若い道元はこの思想に疑問を感じます。それは「さとっているのにどうして修行が必要か?」というものでした。その答えは叡山では得られなかったのです。そしてこの答えを得ることが道元の一番の課題となったのです。
 大権力者の息子という超おぼちゃまの道元、没落貴族の子で苦労して我慢強さが備わった親鸞が叡山で20年修行したのに対して、そこは我慢が効かず、2年で叡山を下り栄西の下に。そして栄西の弟子明全のもとで修行後、明全とともに宋にその答えを求めて渡ります。
 道元は、正師、正法を求めて諸方遍歴、修行の旅をします。そして、遍歴ののち最初の修行の地天竜山に戻ってついに正師如浄に出会います。そして、如浄より正法を得た道元は2年後帰国します。その時、道元は「空手還郷(くうしゅげんきょう、手ぶらで帰るの意味)」と語っています。『正法を得て帰ってきたから、経典などはいらない!』ということだったのでしょうか?経典や仏具をいっぱい持ち帰って、こんなに頑張ってきました、とアピールした空海とは真逆です。生真面目そのものです。
 結局、この生真面目さというか、融通の利かないことが結果として、彼の布教の妨げとなります。京都での彼の布教は当初順調でしたが、出る杭は打たれるということでしょう、朝廷と結んだ臨済禅などの圧力を受けて、越前の地へと逃れることとなりました。
 越前永平寺での道元はそれまでの一般大衆への布教から、弟子の育成へ、そして彼の思想をまとめた日本史上に燦然と輝く哲学書『正法眼蔵』の執筆に力を入れます。この著作は、「さとっているのにどうして修行が必要か?」という彼の疑問に対する、「只管打坐」(ただただひたすら坐禅をする)そして「証上の修(しょうじょうのしゅ)」(さとったものがさらに修行すること)という道元自身が修行の結果得た答えを、論理的に解説したものです。仏教の思想では『正法眼蔵』の全ての説明があるわけではありませんが、それでも難解で、今もよく分かっていません。ただ、道元はともかく自分が知ったことを文章でとことん説明したかったのだと思います。ここにも彼の生真面目さが十分出ていると思います。永平寺の修行は、現在にも通じるものですが、食事の仕方など全てにルールがあり、ともかく厳しいものだったようです。そこにも道元の性格が表れています。 

 浄土真宗の開祖親鸞、曹洞宗の開祖道元、ともに今日の日本を代表する仏教宗派の開祖として尊敬されています。しかし、親鸞は越後への流罪の赦免後数年して現在の千葉県で、約20年布教を行い、やがて結果30年に及びますが、60歳で京都に隠棲しています。地方での布教、中央では無名といっていい親鸞、しかも自ら一派を起こそうという気が全くなかった親鸞が、今日大宗派の開祖にという疑問が起こります。
 道元も同様です。厳しい修行で弟子がいつかず、道元の愛弟子といえるのは『正法眼蔵随聞記』を書いた懐奘一人だけ、弟子のほとんどは他宗派から帰依した弟子でその数も少なかったといいます。
 つまりは、宗派の成立、さらに隆盛という点では、早い話「弟子が偉かった」と言えそうです。この点では空海と日蓮がそれぞれ弟子の育成、宗派の基礎の確立に力を注いだのと、この二人の開祖とは対照的です。親鸞と道元は「祭り上げられた開祖」とも言えそうです。

 と、簡潔に説明できないためやたら長くなりましたが、日本編の四人の人物を思想を勉強する中で感じてきたとことを、勝手な解釈でお話ししてみました。

 さらに、ざっと区分してみると、平安仏教の空海、鎌倉仏教の親鸞、道元、日蓮という分け方も出来そうですが、それは同時に前者(空海)は理論仏教、後者は実践仏教(親鸞、道元、日蓮)という区分にもなる気がします。
 インドから中国に渡って日本にもたらされた仏教ですが、山のような経典や思想が同時に入ってきた中国で、一度整理され主な宗派として「天台(法華)宗」「華厳宗」「禅宗」「浄土宗」が成立します。前2者は理論仏教、後2者は実践仏教に分類されます。仏教の思想日本編には登場しませんが、日本天台宗の開祖最澄により、中国天台と中国華厳は統合され「天台本覚思想」として日本において完成します。同じく空海も当時中国では主流ではなかった「密教」を日本に持ち帰り「真言密教」として日本で完成させます。
 つまり、仏教はインドから中国での整理を経て日本渡り、日本において理論的、哲学的な意味において最澄、空海によって完成します。さらに、それらの理論仏教を特に最澄の日本天台に学んだ鎌倉仏教の開祖たちが、実践仏教として日本全国に広めたと言えそうです。もっとも、道元の著作『正法眼蔵』は哲学書といえるもので、禅という範疇を超え、仏教思想の集大成ともいえる理論書という評価がこの仏教の思想(第11巻)ではされています。


 と、最後に蛇足のまとめをしてみました。長々となり、最後まで読んでいただいた方には感謝というよりお詫びをしたい気持ちです。ありがとうございました。
 
 で、一応最初の目標の「仏教の思想(全12巻)」の整理は終わりましたが、これが主目的ではありません。「日本仏教史」の勉強の方に主体を移したいと思います。
 ただ、その前に、中国編の整理をもう一度と思っています。それは、中国編は日本編のように高僧個人ではなく、宗派別(天台、華厳、禅、浄土)になっていて、多くの高僧が登場します。それらの高僧の関係を年表形式で一度整理しておきたいと思っています。
 それと、日本編には「法然」と「最澄」は登場しません。やはり日本仏教史の上では外せない二人です。この二人の勉強も並行にできればと思っています。その後については、またその時考えます。ということで、どうやら終わりは見えないですね。



仏教思想:親鸞(補足2(完):「正信念仏偈」)

2018-11-10 07:48:24 | 仏教思想
 親鸞は9歳から29歳までの20年間を比叡山で過ごします。この間の親鸞の動静はほとんど分かっていません。しかし、その叡山での修行に疑問を感じた親鸞は、山を下り六角堂に100日籠りその95日目に聖徳太子が示現、法然のもとに行くようにと言われます。
 そしてその後100日法然のもとに通い、ついに法然の弟子となったのです。

 法然の教えを知った親鸞は、これぞ私の求めていた教えと歓喜し、これぞ「真宗」と生涯法然の教えを信じこれを守ったのです。そしてその教えをまとめたのが、主著といわれる『教行信証』というわけです。
 『教行信証』については、先にノートを作成した時の記事で紹介済みですが、「行の巻」の巻末に「正信念仏偈」といわれる偈(詩文)があり、この偈は『教行信証』のエッセンスといえる内容となっています。

 ということで、親鸞の補足の最後に、この「正信念仏偈」をご紹介して、親鸞のまとめとしたいと思います。なお、原文は漢文で、ここではその書き下し文に補足の説明を追記してご紹介します。長文で、しかもかなり難解かと思いますが、興味のある方は挑戦してみてください。

 
 
 
 
 
 
 
 
 


 親鸞は「信楽(しんぎょう)」ということを言っています。信ずることそれが一番大事だといっているのです。
 浄土教の主要経典の「阿彌陀三部経」のうち、親鸞は自身の思想形成において唯一『大無量寿経』をとりあげています。『大無量寿経』は、阿彌陀浄土の世界を教える『阿彌陀経』、阿彌陀浄土への行き方を教える『観無量寿経』に対して、阿彌陀仏の本願というものを教えています。
 その内容は、阿彌陀如来がまだ法蔵菩薩という修行時代に、師の世自在王仏(せじざいおうぶつ)より仏国土の優れた点を聞き、そこから48を選び取った「四十八願」を教えています。
 この四十八願のうち親鸞は特に第十八願(「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくにゝむまれんとおもうて、乃至(ないし)十念せん。もしむまれずば、正覚(しょうがく)をとらじ」)を彼の思想の基本におきます。
 つまり阿彌陀様は菩薩の修行時代に、すべての衆生が私を信じて、極楽浄土に行けないのなら、さとりの世界には行きませんと願って、いま如来になっているのだから、この本願は成就しているのだ。みんなこれを信じなさい、そうすれば、みんな極楽浄土へ行けますよ、というわけです。

 親鸞は言います。自力の人は自分を頼るから「信楽」できない。他力の人はもっぱら、阿彌陀の本願を頼るから極楽浄土へ行ける。まさに「悪人正機」というわけです。
 流罪・肉食妻帯・善鸞事件(実の息子の裏切り)など苦難の中で、阿彌陀の本願を知った親鸞は歓喜し、これぞ「真宗」師法然にどこまでもついて行くと。思想家というより実践の人、非僧非俗、愚禿親鸞、人間親鸞であったわけですが、どうやらその思想は師法然とは違っていたようです。そのところは、過去記事を参照ください。

 ノート作成時の「仏教思想:親鸞」の過去記事はこちらに(その1その2その3その4
 
 次は道元のword化です。終わりましたら、またご報告します。