『今朝の天気』
(7:15頃)
今朝の温度(6:00) 室温 リビング:20.5、 洗面所:22.0、 湿度(リビング):29%
(昨日の外気温 東京、最高気温:20.1、最低気温:10.3
本日の予想気温 最高気温:18、最低気温: 8)
中国華厳思想概要の8回目です。3回目までの序に続いて、4回目から本論に入り、まずは『華厳経』について、その意味と構成・主要な章(品名)を取り上げました。そして、前回までで主要な三つの品名「十地品」「入法界品」「性起品」についてその内容をみてきました。(過去記事はカテゴリー「仏教思想」から遡及できます。)
今回からはいよいよ中国華厳思想のそのものについてみていくこととします。そこで、先の系譜においても少しふれましたが、まず初めに中国思想と他思想・他宗派との関係について取り上げます。
今日は、荘子と中国華厳との関係をみてみます。
3.中国華厳宗と他思想との関係
3.1.荘子と華厳
中国の「華厳宗」は『華厳経』を基としているが、その成立には中国古代からの思想が強く影響しているといわれています。
例えば、中国辛亥革命時期の思想家章炳麟(しょうへいりん1869-1936)は、法蔵の著作と『荘子』の「斉物論(せいぶつろん)」の一章は類似しているとしています。
3.1.1.『荘子』「斉物論(せいぶつろん)」の概要
①天倪
「斉物論」では、人間が是非をあげつらうのをやめ、魂のやすらぎを求めようとするならば、議論や争いによる解決を捨て、絶対の一としての「天倪(てんげい)」にまかせなければならないとしています。
天倪とは、「天鈞(てんきん)」と同じであり、「絶対的な一」のことです。
②道枢
また、「斉物論」では、「道枢(どうすう)」ということを述べています。道枢とは、彼と此というような、自他がたがいに対立するものをいっさい失いつくした境地のことです。道枢は一切の対立と矛盾をこえた絶対の一に立脚して、千変万化する現象の世界に自由自在に応ずることなのです。このような万物斉同な実在の真相を観照する叡知を、自己のものとするところに、理想の世界が開けると説くのが荘子の考え方でした。
「天地は一指なり、万物は一馬なり」のことばで荘子は表わしており、これは『華厳経』の「一即多、多即一」にきわめて類似しています。
③すべての人間は天(=自然)の心をもつ
おのれを是とし、他を非とするのは、自己に固執するからおこる。それを超克しようとするのが『荘子』の考えです。
荘子は言う「夫れ其の成(ある)がままの心に随って之を師となせば、誰か独り且(は)た師なからんや」と。このような心は聖人のみにあるのではない。愚かなる者、凡人にもそなわっている、としているのです。これはのちの禅宗の「即心是仏」にも通じるものです。
3.1.2.『荘子』の華厳宗への影響例-曇遷の著書『亡是非論』
前述の「性起」でもふれましたが、華厳宗の第二祖智儼は、その著書『孔目章(くもくしょう)』にて、隋代に摂論宗を北中国に広めた学匠禅定寺曇遷(どんせん542-607)の著書『亡是非論』を全面的に引用しています。
『亡是非論』は、「斉物論」を焼き直ししたものと言われています。つまり、曇遷を通じて、『荘子』が華厳宗に大きな影響を与えたことになります。
『亡是非論』では、冒頭で次のように述べています。
「夫(そ)れ自らを是とし、彼を非とし、己を美しくし、人が悪(にく)む。物然らざることなし。もって皆然るが故に、世を挙げて紛紜(ふんうん:みだれること)として自ら正すものなし」
曇遷は自我の絶対化を悪とみなし、片方を是とし、片方を非とすることにまっこうから反対しました。しかし、自然の世界の運用においては、すべては自然の生命のまま動いてゆく、彼を非とし、己を是とする必要もないとのべています。
3.1.3. 『荘子』と仏教の違い
①根本的な相違点
以上述べたように、『荘子』と「華厳宗」は思想的に酷似していますが、『荘子』と仏教そのものが根本的な点で相違しています。それを整理すると下表18のようになります。
つまり、仏教では自己の外に絶対的なものを置かないということです。これは『荘子』に限らず他思想・他宗教と仏教の根本的な違いであり、例えば、キリスト教のような絶対神は仏教では存在しないのです。
②事例:曇遷の『亡是非論』では
曇遷は仏教の立場で『亡是非論』において、「若し「是非」の対立の立場をあやまりとし、それをこえた「無是非」の世界が正しいものであるとするならば、それはほんとうのものではない。「是非」対立の立場を悪(にく)んだり、拒否することは、すなわち「是非」のとりこになっているのだ」と説いています。
この説は、哲学的には、相対に対立する絶対は、相対に対立するという意味において、それ自身相対の地位に落ちるのであり、真の絶対は相対に対立する絶対ではなく、相対即絶対でなければならないことを言っているのです。
この現実の対立闘争の世界がそのままほとけのいのちとなるべきだ、というのが仏教のねらいであるわけです。
3.1.4.性起(しょうき)説成立の背景
『荘子』-『亡是非論』-華厳を通ずる思想的脈絡が、のちに華厳独特の思想である「性起説」を成立させる背景となったと考えられます。
『華厳経』「性起品」の「仏性がわれわれ衆生のなかにも存在する」と『荘子』の「現実の凡人の中にも自然、天なる心が内在する」との考え方が融合して、中国の華厳思想が熟成されていったと考えられるわけです。
本日はここまでです。次回は華厳と天台の関係をみてみます。しばらくお待ちください。
(本日コメント欄お休みをいただいております。)
(7:15頃)
今朝の温度(6:00) 室温 リビング:20.5、 洗面所:22.0、 湿度(リビング):29%
(昨日の外気温 東京、最高気温:20.1、最低気温:10.3
本日の予想気温 最高気温:18、最低気温: 8)
中国華厳思想概要の8回目です。3回目までの序に続いて、4回目から本論に入り、まずは『華厳経』について、その意味と構成・主要な章(品名)を取り上げました。そして、前回までで主要な三つの品名「十地品」「入法界品」「性起品」についてその内容をみてきました。(過去記事はカテゴリー「仏教思想」から遡及できます。)
今回からはいよいよ中国華厳思想のそのものについてみていくこととします。そこで、先の系譜においても少しふれましたが、まず初めに中国思想と他思想・他宗派との関係について取り上げます。
今日は、荘子と中国華厳との関係をみてみます。
3.中国華厳宗と他思想との関係
3.1.荘子と華厳
中国の「華厳宗」は『華厳経』を基としているが、その成立には中国古代からの思想が強く影響しているといわれています。
例えば、中国辛亥革命時期の思想家章炳麟(しょうへいりん1869-1936)は、法蔵の著作と『荘子』の「斉物論(せいぶつろん)」の一章は類似しているとしています。
3.1.1.『荘子』「斉物論(せいぶつろん)」の概要
①天倪
「斉物論」では、人間が是非をあげつらうのをやめ、魂のやすらぎを求めようとするならば、議論や争いによる解決を捨て、絶対の一としての「天倪(てんげい)」にまかせなければならないとしています。
天倪とは、「天鈞(てんきん)」と同じであり、「絶対的な一」のことです。
②道枢
また、「斉物論」では、「道枢(どうすう)」ということを述べています。道枢とは、彼と此というような、自他がたがいに対立するものをいっさい失いつくした境地のことです。道枢は一切の対立と矛盾をこえた絶対の一に立脚して、千変万化する現象の世界に自由自在に応ずることなのです。このような万物斉同な実在の真相を観照する叡知を、自己のものとするところに、理想の世界が開けると説くのが荘子の考え方でした。
「天地は一指なり、万物は一馬なり」のことばで荘子は表わしており、これは『華厳経』の「一即多、多即一」にきわめて類似しています。
③すべての人間は天(=自然)の心をもつ
おのれを是とし、他を非とするのは、自己に固執するからおこる。それを超克しようとするのが『荘子』の考えです。
荘子は言う「夫れ其の成(ある)がままの心に随って之を師となせば、誰か独り且(は)た師なからんや」と。このような心は聖人のみにあるのではない。愚かなる者、凡人にもそなわっている、としているのです。これはのちの禅宗の「即心是仏」にも通じるものです。
3.1.2.『荘子』の華厳宗への影響例-曇遷の著書『亡是非論』
前述の「性起」でもふれましたが、華厳宗の第二祖智儼は、その著書『孔目章(くもくしょう)』にて、隋代に摂論宗を北中国に広めた学匠禅定寺曇遷(どんせん542-607)の著書『亡是非論』を全面的に引用しています。
『亡是非論』は、「斉物論」を焼き直ししたものと言われています。つまり、曇遷を通じて、『荘子』が華厳宗に大きな影響を与えたことになります。
『亡是非論』では、冒頭で次のように述べています。
「夫(そ)れ自らを是とし、彼を非とし、己を美しくし、人が悪(にく)む。物然らざることなし。もって皆然るが故に、世を挙げて紛紜(ふんうん:みだれること)として自ら正すものなし」
曇遷は自我の絶対化を悪とみなし、片方を是とし、片方を非とすることにまっこうから反対しました。しかし、自然の世界の運用においては、すべては自然の生命のまま動いてゆく、彼を非とし、己を是とする必要もないとのべています。
3.1.3. 『荘子』と仏教の違い
①根本的な相違点
以上述べたように、『荘子』と「華厳宗」は思想的に酷似していますが、『荘子』と仏教そのものが根本的な点で相違しています。それを整理すると下表18のようになります。
つまり、仏教では自己の外に絶対的なものを置かないということです。これは『荘子』に限らず他思想・他宗教と仏教の根本的な違いであり、例えば、キリスト教のような絶対神は仏教では存在しないのです。
②事例:曇遷の『亡是非論』では
曇遷は仏教の立場で『亡是非論』において、「若し「是非」の対立の立場をあやまりとし、それをこえた「無是非」の世界が正しいものであるとするならば、それはほんとうのものではない。「是非」対立の立場を悪(にく)んだり、拒否することは、すなわち「是非」のとりこになっているのだ」と説いています。
この説は、哲学的には、相対に対立する絶対は、相対に対立するという意味において、それ自身相対の地位に落ちるのであり、真の絶対は相対に対立する絶対ではなく、相対即絶対でなければならないことを言っているのです。
この現実の対立闘争の世界がそのままほとけのいのちとなるべきだ、というのが仏教のねらいであるわけです。
3.1.4.性起(しょうき)説成立の背景
『荘子』-『亡是非論』-華厳を通ずる思想的脈絡が、のちに華厳独特の思想である「性起説」を成立させる背景となったと考えられます。
『華厳経』「性起品」の「仏性がわれわれ衆生のなかにも存在する」と『荘子』の「現実の凡人の中にも自然、天なる心が内在する」との考え方が融合して、中国の華厳思想が熟成されていったと考えられるわけです。
本日はここまでです。次回は華厳と天台の関係をみてみます。しばらくお待ちください。
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