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仏教思想:中国華厳思想概要(その11)

2021-05-11 08:29:46 | 仏教思想
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 中国華厳思想概要の11回目です。
 現在は、中国思想と他思想・他宗派との関係についてみています。そして「荘子と中国華厳との関係」、「華厳と天台の関係」、「唯識と華厳の関係」をみてきました。(過去記事はカテゴリー「仏教思想」から遡及できます。)
 本日は続きとして「華厳と禅の関係」をみてみます。


3.4.華厳と禅
3.4.1.中国仏教における禅の位置付け
①中国仏教における理論仏教と実践仏教
 中国仏教における四大宗派は二つに大別できます。一つは、哲学的・教学的仏教である華厳・天台の二宗、いま一つは、実践的仏教である禅・浄土の二宗です。
 このうち、華厳・天台の二宗は、その思想形成において、実践的要求が強くうごいたものの、成立した教学は難解な哲学的仏教におわった面が強く、エリートや僧侶や特定の知識階級に属する人(特に貴族層)には理解できても、一般大衆には手が届かないものであったのです。

②華厳から禅へ
 上記の中国仏教界において、哲学仏教をささえた貴族層(天台:隋の煬帝、華厳:唐の則天武后)の古代国家の崩壊(特に安史の乱以降)、武人階級の出現により、彼らの欲求する新しい宗教を必要とすることになります。
 そこにおいて、禅宗の教えとは、直截簡明であり、溌溂とした生命、自由な行動に満ち溢れたもので、そのモットーは「不立文字(ふりゅうもんじ、一切の既成概念にとらわれない)と「直指人心(じきしにんしん、自分の奥底に秘在する心を凝視して、本当の自分、すなわち仏心、仏性を直接端的にしっかり把握すること)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ、自分の奥底に存在する仏心仏性になり切って、真実の人間になること)」であるというところから、新しい階級の欲求を満たすこととなったのです。
 ただし、華厳思想禅の哲学的説き方と比較するならば、両者は天と地ほど違ったものに見えるものの、むしろ禅の思想をささえるのは華厳の性起説であるといってよいぐらいであるのです。

3.4.2. 禅思想の背景としての華厳
①中国禅思想成立の背景-思想の必要性-
 禅宗はもともと不立文字であるから、特定のドグマをもちません。このため、禅思想や禅行為を正当化させるためには背後に思想をもたねばならなくなったのです。
 例えば、馬祖道一の場合の「日常心が道だ」によれば、日常生活そのままが禅となり、そのまま仏の道となる。別に修道坐禅の必要もなくなり(「如来清浄禅」と呼ぶ)、まさに「そのまま禅」となる。これを可能ならしめる思想の根拠を示す必要が出て来たのです。

②中国禅への中国華厳の影響(事例:馬祖道一の思想)
 道一の思想には、華厳の無尽縁起の思想(詳細後述)や性起思想があらわに出ています。
 「この現実に生きているこの自分と、この自分の生活こそが、理であり、事であるのだ。理としてみれば、わたしたちの煩悩具足の生活にもほとけのいのちが貫いている。ほとけの光明に包まれている。また事としてみれば、「挙体全事(こたいぜんじ)」であり、あるものはこの生死(しょうじ)の世界、無明の世界以外ありようがないのである。」と。
 彼は、「立処即ち真なり」という『肇論』(鳩摩羅什(くまらじゅう)の門下、僧肇(そうじょう 374-414)の主著)のことばを引用し、ここに彼の思想の背景をみることができるのです。
 このままがほとけのいのちの現成(げんじょう)であるという絶対肯定の禅は、中国禅のたどりついた至境を表わすものです。(=「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)」)
 この馬祖の思想は、その後の中国禅のなかに、また、日本の道元の思想に伝えられていったのです。
 日本曹洞宗開祖道元の場合は、「不染汚(ふぜんな)の修証(しゅうしょう)」といい、「修証一如」といっているのも、禅思想の流れから考える必要があります。道元のいう「現成」の思想はまさに華厳の性起であるのです。


 本日はここまでです。これで、中国華厳思想の前段ともいうべき、「中国思想と他思想・他宗派との関係」についてはお終いです。次回からはいよいよ中国華厳思想の本論に入ります。「中国華厳思想の至境」と題しての説明となります。しばらくお待ちください。





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