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ガンバレ、ニッポン

なんか、不安定なニッポンですね。

親には「死ぬまで隠し通すつもり」コロナ禍で収入減によって生活が困窮『夜の街』に飛び込む女性たち

2021-11-29 19:17:55 | 国内
親には「死ぬまで隠し通すつもり」コロナ禍で収入減によって生活が困窮『夜の街』に飛び込む女性たち

今年は緊急事態宣言が3回出されるなど、特に飲食業界にとっては厳しい1年でした。そんな中、非正規雇用の労働者数が激減し、とりわけ女性が大きな影響を受けているとみられています。突然仕事を失い、さらに公的な支援なども行き届かず、「夜の街」に飛び込む女性たちの姿を追いました。 

時短解除で活気戻るなか…夜の接客業「ぶっちゃけ変わっていない」

MBSニュース

10月25日、大阪府に出されていた飲食店への時短要請が解除されました。11か月間という長い長いトンネルでした。11月12日に取材班が大阪・ミナミの繁華街を訪れると、コロナ前までとはいかないものの、活気が戻ってきていました。

今年6月に大阪・ミナミの街で1人の女性と出会いました。18歳のななこさん(仮名)。1歳の娘を育てる母親です。取材した日は、夜の接客業を始めるために、面接を受けに来ていました。 (1歳の娘を育てるななこさん・仮名 18歳 今年6月) 「あまり話さない方なんで、しゃべれるかなという不安があります」 コロナ禍で夫の収入だけでは生活が維持できず、働かざるを得なくなったといいます。 (1歳の娘を育てるななこさん・仮名 今年6月) 「(昼間の)保育所がいっぱいなんですよ、定員が。だから(夜間の)託児所しか空いていなくて、託児所の料金的にも夜の街の方がいいなとなりました。(Q託児所はどれくらい?)1か月で5万円ちょっとくらいです」
カフェでの収入が激減…夜の街で働くことを考える大学生

大学生 れなさん(仮名・今年7月)

生活の困窮から夜の世界に身を投じる女性たち。大阪府内の大学生で21歳のれなさん(仮名)は、これまで夜の街とは無縁だったといいますが、今年7月にナイトワークを始めようとしていました。 (大学生 れなさん・仮名 21歳 今年7月) 「(シフト)全然入れなくなって、お金ないしという感じですかね」 1人暮らしのれなさんは、コロナ前はカフェで働いていて、月15万円ほどの収入で大学に通いながら生活してきたといいますが。 (大学生 れなさん・仮名 今年7月) 「もともと週5で働いていたのが、2週間か1週間に1回くらいになっちゃって、月2~4万円くらいになりました。(Qそれがきっかけですか?)若いうちにしかできないし、せっかくだからやってみようって。今何やっても稼げなさそうだし。(Qご両親に仕事のことは?)お昼の仕事1本でやってると思ってます。死ぬまで隠し通すつもりです。(Qそれはなぜ?)やっぱり偏見とかもあるし、お母さん大好きだから後悔とかしたらかわいそうだなと思って」
ミナミの店に体験入店へ

体験入店する店の店長とれなさん(仮名)

夜の接客業で働こうとする大学生のれなさん。この日、ミナミの店で体験入店することになり、カメラも店の中に入ることが許されました。   (店長)「水商売自体は未経験?」 (れなさん)「未経験です」   (店長)「ちなみにどういうことされていたんですか?」 (れなさん)「お昼は飲食店で普通に働いていました」   (店長)「お料理は得意ですか?」 (れなさん)「なにもできないです。レンジくらいしか使えないです」   (店長)「接客は得意ですか?」 (れなさん)「カフェとかの接客は好きです」   (店長)「緊張すると思うんですけど、フランクに」

面接を受けて、その後、接客用のドレスに着替えます。華やかな白いワンピースに身を包んだれなさん。そしてすぐに客のタバコに火をつける方法など接客の所作を学びます。   (店員)「手で覆ってあげて火が消えないようにして、お客様の口元にもっていく」 (れなさん)「(ライターの火がつかず)ちょっと、さっきまでついてましたよね?」 一抹の不安を抱えながらもその日のうちに接客することになりました。ここからは撮影NGのため、取材班は一旦外へ。
体験入店を終えて「夜の街で働くのは仕方ないかな」
大学生 れなさん(仮名)

2時間後、体験入店を終えたれなさんが出てきました。 (大学生 れなさん・仮名) 「(Qどうでしたか?)なんか疲れました。(Qどんなところが?)しゃべりながら手を動かしたり。(Qお給料はいくらくらい?)6500円くらいだと思います。2時間くらいなので。(Qコロナ禍でこの仕事をしている自分は?)仕方ないかなと思います。(Qこの業界で働こうと思いますか?)ちょっと考えようかなと。1回寝て」 この2週間後、れなさんは夜の街で働くことを決めました。 夜の街では突然、生活が苦しくなり安易に身を投じる女性たちもいます。その多くは行政などの支援の存在を知らないことが多く、「行き届く支援」がより求められています。


“ウィズコロナ”施行後「ソウルの死者は約4倍増加」…感染者は「約2倍増加」=韓国

2021-11-29 19:15:47 | 韓国
“ウィズコロナ”施行後「ソウルの死者は約4倍増加」…感染者は「約2倍増加」=韓国

韓国では、今月1日からの「段階的日常回復(ウィズコロナ)」施行以降、

ソウル地域の新型コロナウイルス感染症による死者が約4倍も急増していることがわかった。また感染者も約2倍増加している。

 きょう(29日)ソウル市によると、10月24~30日に計32人(一日平均4.6人)であった週間新型コロナ死者数は、その後32人から48人、

さらには76人と増加し、先週には120人(一日平均17.1人)に急増した。

ウィズコロナ施行の直前と比較すると、3.7倍増加したことになる。

 一方、ソウル市の一日平均の感染者数は、11月第1週(10月31日~11月6日)の848.3人から896.6人→1237.4人→1605.7人と3週連続で過去最多記録を更新してきた。 

また、先週の重症患者数は一日平均222.4人で、2週間前(199.2人)より23.2人増加した。

《日本人同士の人身売買》1人あたりの値段は約2000円…上杉謙信の指示で始まった“連れ去り商行為”のリアル

2021-11-29 10:15:49 | 日本
二束三文で売られた人々
 永禄9年(1566)2月、小田氏治の籠る常陸小田城(茨城県つくば市)は、上杉謙信の攻撃で落城した。落城直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。
 その様子は『別本和光院和漢合運』に「小田城が開城すると、謙信の意向によって、春の間、人が20銭・30銭で売買されることになった」と記されている。この一文を読む限り、人身売買が謙信の指示に拠ることは明らかである。つまり、謙信の公認だったといえよう。おそらく城内には、周辺に住んでいた農民らが安全を確保するため逃げ込んでいたのだろう。戦争になると、農民らが城へ逃げ込むことは珍しくなかった。
 ちなみに20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、たったの約2000円にすぎない(30銭は3000円)。おそらく、雑兵たちは相当な数の女・子供(あるいは男も)を生け捕りにし、奴隷商人を介して売ることにより、利益を得ていたのだろう。まさしく戦争に出陣する「旨み」であり、将兵にとって賞与のようなものだった。なお、城下での攻防戦で、人や馬が連れ去られた例はほかにも報告されている。
 それにしても、20銭、30銭とはかなりの安値である。数が多いので供給過多となり、薄利多売になったのであろうか。フロイスの『日本史』によると、九州ではかなりの安値で売買された例が報告されている。売られた者は家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたのかもしれない。人身売買は、過酷な現実であった。また、連れ去られた人々は、金銭を負担することで買い戻されることもあった。
 こうした人々は、城下で将兵自身によって売買されたか、あるいは奴隷商人を介して売られたのだろう。奴隷商人にとって、どれだけの利益があったのかは、残念ながら判然としない。戦場では武器や兵糧を取り扱う商人のほか、奴隷を売買する商人も存在した(両方を担当していたかもしれない)。つまり、戦場における人の連れ去りは、大袈裟に言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。
大坂の陣における乱取り
 乱取りは、以後の戦争でも止むことがなかった。徳川家と豊臣家の最終決戦の大坂の陣(慶長19年〔1614〕~同20年〔1615〕)でも、乱取りの実態を確認することができる。『義演准后日記』によると、慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣で勝利した徳川軍の兵は、女・子供を次々と捕らえて、凱旋したことを伝えている。大坂城内には将兵だけでなく、普通の人々も逃げ込んでいたので、落城後はそうした人々を捕縛して連れ去ったのである。

徳川方に与した阿波の蜂須賀軍は、約170人の男女らを捕らえたといわれている。その内訳は、女が68人、子供が64人とその多くを女・子供が占めていた。40人程度が成人した男だったのだろう。捕らえられた女・子供が多い理由は、これまでの戦争と同じと考えられる。
「大坂夏の陣図屛風」(大阪城天守閣所蔵)は大坂夏の陣を描いた屛風絵で、逃げ惑う戦争難民の姿が見事に活写されている。左隻全面には、戦場から逃亡する敗残兵や避難民だけでなく、徳川軍が略奪・誘拐・首取りする姿が描かれている。なかでも注目されるのは、将兵に捕まった女性たちの姿である。将兵は戦いに集中せず、むしろ人やモノの略奪に熱中していた。それが彼らの稼ぎとなっていたからだ。そして、捕縛された人々は奴隷に身を落とすか、売買されたのである。
 こうした地獄絵図のような乱取りは、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。

信長公記』に見る乱取り・人身売買
 各地の戦場で乱取りや人身売買が横行していたが、織田信長の時代にも見られた現象である。以下、特に売春の例について確認しておこう。
倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史(星海社新書)
 天正3年(1575)、織田信長は越前国で蜂起した一向一揆を討伐した。その際、3・4万人に及ぶ人々が、殺害または生け捕りにされたという(『信長公記』)。殺害または生け捕りにされた人々は、将兵だけでなく農民や女・子供も含まれていた。生け捕りにされた農民や女・子供は連行され、奴隷のようにこき使われるか、または売買して金銭に換えられたに違いない。つまり、彼らは戦利品として扱われ、出陣した将兵にとっての賞与のようなものだったのだろう。
 ところで、信長が京都を支配しているとき、女性の売買が問題となった。『信長公記』天正7年(1579)9月には、次のような記事がある。
 去る頃、下京場之町(京都市下京区)で門役を務めている者の女房が、数多くの女性を騙して連れ去り、和泉国堺(大阪府堺市)で日頃から売っていた。この度、この話を聞きつけ、村井貞勝が召し捕らえて尋問すると、これまで80人もの女性を売ったと白状した。
 この女性は、門番の妻という普通の女性だったが、裏では女性の売買に関わり、少なからず収益を得ていた。この場合の女性を騙したという手口が不明であるが、数が80人というから尋常ではない。誰かが京都所司代の村井貞勝に密告したのだろうか。京都所司代には、京都市中を取り締まる役割があった。
 わざわざ和泉国堺で女性を売ったのは、商人が多い土地柄ということに加え、堺の商人にとってもその後の転売がしやすかったからだろうか。こうした話は、やがて織田政権下で京都所司代を務める村井貞勝の耳にも入った。織田政権下においても人身売買は禁止されていたので、このあと女性は厳しい処罰を受けたのである(その後、女性がどうなったかは不明)。以下、戦国時代における売春の問題について、もう少し考えてみよう。

室町・戦国時代の売買春
 戦場で捕らえられた人々のうち、特に女性の一部は売買春に従事させられた可能性がある。すでに中世においては、売買春のシステムが整っていた。以下、この点を詳しく確認することにしよう。
 傾城(傾国)という言葉があり、それは美人・美女を意味するが、転じて遊女を示すようになった。中国の正史の一つの『漢書』外戚伝には、「北方に佳人有り。(中略)一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く」と書かれている。この記述を典拠として、傾城とは「美女の色香におぼれて城や国が傾く」こと、つまり国が滅びることを意味するようになった。中国の春秋時代(紀元前770~同403)における、呉王の愛姫・西施は「傾城の美女」として非常に有名である。
『漢書』外戚伝を出典として、傾城は日本でもたびたび遊女を示す言葉として使用されてきた。したがって、日本の史料であっても「傾城(屋)」と書かれていれば、間違いなく遊女あるいは遊女屋を示す。



日本人奴隷の僧・雪明

2021-11-29 10:13:55 | 韓国
日本人奴隷の僧・雪明

男性の日本人奴隷については、日本人の僧・雪明の例で確認しておこう。それは明応6年(1497)1月、朝鮮の礼曹(行政機関の一つ)が燕山君(李氏朝鮮の第10代国王)に報告した内容に基づくものである。  雪明は博多(福岡市博多区)の出身である。対馬から面羅時羅という者が博多を訪れた際、当時まだ14歳の雪明に会い、「もし朝鮮に行けば、衣食は支給され、爵秩(爵位)が与えられる」と勧誘した。雪明にとって、これは好条件だった。そこで、文明6年(1474)1月、雪明は面羅時羅に伴われ、友人6名とともに朝鮮の薺浦へ渡海したのである。しかし、ここで雪明らに悲劇が襲った。  雪明は到着地で友人らとともに捕らえられると、そのまま朝鮮在住の日本人に売られ、奴隷として労働に従事することになった。雪明は朝鮮での生活に伴う好条件につられ、面羅時羅に騙されたのだ。当時、日本では日本人奴隷を買い求め、朝鮮で転売する日本人の奴隷商人が存在した。朝鮮には、日本人の奴隷商人から日本人奴隷を購入する、朝鮮人の仲買商人がいたという。  雪明は奴隷身分から逃れるため、頭を丸めて僧侶となった。剃髪は奴隷を意味していたが、僧衣などで僧侶と判別できたのだろう。また、僧侶は俗世界とは離れていたので、奴隷であっても解放されたと推測される。こうして、雪明は大国諸山を回ったが、朝鮮では儒教が国教だったため、仏教は徹底して弾圧されていた。雪明は厳しい弾圧から逃れるため、あえて髪を伸ばして俗人となり、日本人の家に寄寓して「日本に帰国したい」と希望を述べた。    ところが、僧侶として朝鮮全土を回り、国情を詳しく知った雪明を帰国させるわけにはいかないというのが礼曹の判断だった。投化倭人(降伏し、田地を与えられ安住した倭寇)の例に倣って、京中に住まわすことを燕山君に進言したのである。奴隷とはいえ、安全保障の観点から帰国をさせなかったのだ。結局、雪明の措置がどうなったのかは不明であるが、投化倭人に準じた可能性が高い。  このように、15世紀の日本において、人身売買が国の枠を超えて行われたことは、非常に興味深い。一方で、倭寇が中国人、朝鮮人を捕らえ、彼らが日本で奴隷となったことはすでに述べたが、日本人が逆に捕らえられて、奴隷として朝鮮で使役された点にも注目すべきだろう。いずれにしても奴隷の問題は、単なる一個人のことに止まらず、国際問題にも発展しえたのである。  

日本人奴隷を使役した実態

2021-11-29 10:12:39 | 韓国
日本人奴隷を使役した実態

朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王・足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。その女性は、朝鮮金海府の朴天なる人物の奴隷だった。  この日本人女性が、いかなる経緯で朴天の奴隷になったのかは不明であるが、かなりの高値で取引されたようだ。女性の奴隷が高値だったのは、家事労働や農作業に従事させるだけでなく、売春させることで金儲けができたからだろう。これにより、朝鮮人のもとに日本人奴隷が存在していたことが具体的に明らかになった。  その後の顚末はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。その際、奴隷を返還しないことは、これまでの交隣の道に背くものだと抗議した。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。  しかし、日本サイドの使者は「日本に私賤はいない」と明言し、朝鮮側の言い分を突っぱね、日本人女性の奴隷の返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したといわれている。一連の交渉は、一種の外圧といえるのかもしれない。  15世紀初頭の段階において、まだ朝鮮では奴隷制度があり、その売買も許されていた(15世紀の終わり頃に禁止)。一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由によって、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、社会に悪影響を及ぼすことが要因なのは明らかで、朝鮮に連行された日本人奴隷の存在自体が問題視されていたといわれている。  当時、売買された日本人奴隷以外に、日本から朝鮮に渡海する日本人(商人など)が多かったという。釜山では日本人の遊女が売春を行っており、日本から朝鮮に仕事で訪れた商人が利用していた。一方で、日本人女性の奴隷が売買されて朝鮮に送り込まれると、遊女に身を落とした例もあったと推測される。  このような事態は風紀や秩序を乱すことになったので、朝鮮側では頭痛の種だったという。また、奴隷商人が朝鮮へ連れ去った日本人は、現地で農業に従事する者が少なくなかったが、船で日本に逃亡するなどしたので、やはり何らかの問題が生じた可能性があろう。