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道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

批判嫌い

2021年10月13日 | 人文考察
私たち日本人は一般に、寛容を徳義の最上位のものとする考え方には未だに馴染めないでいるようだ。
人の寛容性を測るには、批判に対する反応の仕方を見ることで明らかになる。批判を嫌うということは、当人が寛容性を持ち合わせていない事実を表明している。斯く言う私も、自ら省みて寛容には程遠い。

頻繁にテレビに顔を見せる国政議員を見ていると、政権に在る時の彼らは、まさに寛容性欠如のプロトタイプである。中でも世襲有力議員に特に顕著に見受けられる。前々首相が国会の場で、野党議員の質問中にヤジるという、前代未聞の醜態を晒したこともある。国政史上最大の恥ばかりか、世界中に日本人の不寛容を印象づけた。

儒教は五常信義礼智仁を以って徳義とする。
儒教はその初めを徳目と考えない思想だった。古代の中国人は、寛容性を持ち合わせていなかったようだ。孔子がを徳目に加えなかったのは、民族の価値体系にが重視されていなかった証左であろう。寛仁の語は、後の時代の儒者が付加した言葉かもしれない。

を根本的に缺く思想の儒教を、我が国は1300年余りにわたり、真摯に学んできた。本家で疾うに廃れたものを守るのはまさに優等生と言えるだろう。特に徳川幕府は、行政ブレインに儒者を重用し、教学の中核に儒学を据えた。

武士の学問としての儒学は、幕府が滅んだ後も、明治のエスタブリッシュメント(旧武士身分の人たちで構成)に引き継がれ、欧米文化に対抗する精神文化〈和魂〉の中核として、明治人のバックボーンとなった。そして今日、彼らの末裔に連なる現代のエスタブリッシュメントの思想的原郷となっている。これが、世襲議員に寛容性が欠落している、歴史的要因と見て良さそうだ。

人間の本性にそぐわない五常を精神生活の基盤に据えた人々の価値体系が、寛容性と相容れないのは当然である。中国の賢人の教えが、中国人一般から寛容性を失わせたのか、それとも漢民族という民族の特性が、本来的に寛容性を具備していなかったのか、どちらが本当なのか分からない。それは現代中国人社会を観察し続けることで、自ずと明らかになってくるだろう。

1500年前の春秋時代以前から、中国人の支配階級である王・諸侯は、自分達に対する民衆の批判を悪んだ。当時の中国で民衆の反乱がほとんど発生しなかったのは、他に要因はいくつかあるだろうが、為政者が苛烈な極刑で臨んだことが想像できる。

王・諸侯の食客として世過ぎ身過ぎするしか生活の基盤を持たない、諸子百家と称された賢人たちは、主家に忖度して寛容を徳義から省いたのだろうか?イエスのキリスト教の寛容の精神との極端な対比が、この時代に生じていたのは慥かだろう。
西欧近世の啓蒙思想も近代の民主思想も、寛容性の存在無くして発展することは不可能だった。

ユーラシア大陸の両端の社会における寛容性の差異は、時代が下るにしたがって東西文明を隔てる大きな精神文化の断層となって、今日の世界秩序構築の上で最大の障害になっている。

中国の古典、就中四書五経を教材の中心として幼い頃から学べば、人がおおらかさに欠ける人間になるのは必然である。人間性の本質を無視し、頭で考えた理想の徳義を、君臣に統治の基本精神として押し付ければ、諸侯とその家臣、果ては下々の民衆に至るまで、議論を嫌い、批判を悪み、料簡が狭くならざるを得ない。

儒教に欠けているものは人間性の理解と尊重である。正しい人間理解は観念論からは導き得ない。実証で裏打ちされない理論は空理である。寛仁を説いたところで、後付けの空論であることは明らかである。

を除いた五常によって、社会秩序を保とうと考えた中国の賢人の教えを、疑うことなく1500年にも亘って真っ正直に学び続けた日本の支配階級は、儀礼を重んずるあまり、人間性を抑圧し互いに剋(克)し合う窮屈な社会をつくりあげた。高い教育に与る者ほど、人間性寛容性を失うのは、儒教儒学という学問の本質が、実証科学を志向せず、普遍的な学問に発展しなかったからである。批判を排し、議論を省いて来たからである。

孔子より100年ほど遅れて生まれたギリシャのソクラテスの思想哲学と対比すると、彼我の考え方の根本的な違いは明瞭である。

批判に対して寛容になれない民族、それが儒教三国と呼ばれる中国民族、朝鮮民族、日本民族である。
今日でも、三者は剋し合って宥和することがない。揃って批判されることが大嫌いな民族である。三国の民族に共通するのは、国民の各階層が、批判に耐える精神の強靭さを欠いていることである。
批判を嫌う者は議論を避けるその結果、自説を敷衍し、発展させることができない。それは、説得力を喪失することである。

古代ギリシャの街角で、哲学者たちが議論を闘わせていた光景は、東アジアの儒教三国の歴史では、ついぞ見られることはなかった。これらの国々では、街角で議論することなぞ、もっての外だった。

批判を嫌悪したり忌避したりしていては、議論で自説の正当性を確認することができない。
批判を謙虚に受け止めて自己の思想の発展向上に生かすという大人の考え方には、私たちは未だに到達していない。それは社会が精神的に成熟に至っていないことである。経済的に成熟しても、精神はそれに伴うものではない。批判することを避け、批判されることを嫌って、習い性に成ってしまったのが、私たちの同調社会である。

議論が仕事のはずの大臣や国会議員たちでさえ、野党に批判されて切れたりムキになる。果ては国民の前での議論を避け、憲法で定められた国会を開催しない。要するに子供じみているのである。
これでは、選挙民を前に、論理的に主義主張を展開し、批判を仰ぎ問題解決を図ることなど到底できない。

占領軍のマッカーサー元帥が、何をもって日本人12歳説なる発想に至ったかは、本人の言葉が無い以上未だに確とわからない。しかし批判に憤然とする日本の大人たちの数が一向に減らないことは、批判に慣れ議論に馴れた欧米人から見ると、奇異に見えているのではないかと思う。

明治以降に日本に来た多くの外国人が受けた日本人一般の印象は、総じて、おとなしいがプライドが高く、批判を嫌うということだった。批判を嫌うのは、自己肯定感が低い証拠と理解されたことだろう。

私たちは、会議や集会など、人が多くいる場所で批判されると、これに恥の意識が結びついて「人前で恥をかかされた」などと深く遺恨に思う性向が強い。他人志向なので人目を非常に気にする。この恥に敏感な私たちの普遍的気質は、自らの行動分析をする上で注視していなければならない。

この国には、批判即ち非難と受け止める誤ったリテラシーがあるようだ。難じられたと受けとめる感じ方を共有している。人々が互いに健全な批判精神を育て合うことを困難にしている。困難なばかりか、その精神を萎縮させる大きな原因になっている。これでは、議会制民主主義など育つはずもない。

批判は断じて非難ではないし、そうであってはならない。
批判は個人攻撃でも人格攻撃でもない。他人の発言や意見、思想に誤謬錯誤があると見抜いたり感じて指摘することは、発言者個人を否定することではない。発言者の考え=認識・論理にある欠陥を指摘しているのであって、その人個人を非難しているのではない。誤っていると思う部分だけを、指摘している。鋭い分析力と判断力が批判を生むのである。

真実を知りたいと考えている人々は、真実かどうか疑わしい問題については、それが真実とわかるまで批判を加えずにはいられない。物事は正しく批判されることによってのみ、より真実に近づくことができることを知っているからだ。

真理を愛する人間なら、批判を恐れないし、批判されて恥をかかされたなどと考えないはずだ。誤った謂れのない批判には、それに対する批判、つまり反論することで、その誤りを正すべきだしそれは可能であるはずのものだ。

人間の感情というものは理性を凌駕することが避けられない。批判を非難と一方的に受け止める思考回路ができ上がっていると、怒りの感情に火がついて、燃え盛ることになる。

謙虚に批判を受け入れる人は、誤りを犯さなかったことを歓び、批判に感謝するだろう。事実・真実より体面に重きをおく性質が、批判を悪む性情に結び付く。批判によって鍛えられた強靭な精神こそが、真実を明らかにするエネルギーを生む。

虚栄心権威主義は、批判を嫌わせる要因の最たるものだろう。
真理よりも、体面に重きを置く民族は批判を喜ばない。メンツにこだわる中国人がその典型で、彼らは大昔から真理よりも、メンツに拘って生きて来たように見える。中国の賢人の思想を精神的支柱に据えた武士道も、体面への拘りが甚だしく大きい。メンツや体面への拘泥は無謬神話を生み、事実を隠蔽したり歪曲する遠因となる。

1500年に亘って中国の思想を模範としてきた日本人に、批判嫌いは染み付いている。感情が批判を許さない。
したがってこの国では、どんなに正論であっても、批判する人は好かれないし尊敬されない。おそらく皆が批判されることを好まないからだろう。

専制・封建の時代には、為政者を批判することは厳禁で、処罰の対象となった。集会も禁じられていたから、人々が集まり自由闊達に意見を交わし合うことなど、許されなかった。こうして、議論をしない、批判をしない価値体系をもった社会が出現したのである。

批判を嫌う一方で、無闇に謙って鞭撻を有難がるのも奇異である。日本人ほど鞭撻好きの民族はいないのではないか。叱ってくれる、励ましてくれる、なら受け入れることができるというのは、どこか心の深部に甘え=依存があるからではないか?批判されると忽ち思考停止に陥ってしまう人ほど鞭撻を好む。鞭撻に愛を感じるからだろうか?自立した大人の態度と言えるかどうか疑わざるを得ない。

批判は冷徹なものだから、いくら非難ではないと言っても傷ついた心が癒されない。同調の輪の中で互いに傷を癒し合うのが我々の性情に適っているのだろうか?批判嫌い鞭撻好き、これは我が国だけの、他の民族にはあまり見られない特徴かもしれない。幼児的というか未熟というか。

私たちは、そろそろこの批判嫌いの心性を克服し、大人にならなければならない。そうでないと、いくら政権交代を図っても、国や社会は良くならない。英国の二大政党による議院内閣制は、ベースに寛容性を尊重する国民性があるから成立し機能している。形だけ真似しても、中身がなければ、いつまで経ってもホンモノに近づかない。

2000年以上も前に生きた観念論者によって鼓吹され、精神に染みついた性情は、意識してリセットしなければならないと切実に思う。




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