道々の枝折

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エンターテイメントの品質

2025年02月06日 | 随想
テレビ主導のエンターテイメントが、全般的に社会的貢献度を低下させていると見るのは、私だけではないだろう。
映像・音楽・演芸・スポーツ・ゲーム・遊戯・旅行・公営競技等々、今やテレビはエンターテイメントの放映なしでは成り立たない産業と言っても過言ではない。
今日の民放テレビ局は、もはや報道機関としての存在意義を失い、エンターテイメントに依拠しなければ、スポンサーを獲得できないのだろう。そこにかつて在ったジャーナリズムを求めるのは、視聴者の無いモノねだりである。

庶民が報道にアクセスする手段がテレビに限られていた時代即ちテレビに良識があった時代は、テレビ草創期から40年間くらいの、僅かな期間だった。テレビ局の変質を促したものは、インターネットである

テレビがエンターテインメントに軸足を移すにつれ、芸能の世界との親密化、狎れ合いが生まれるようになった。
エンターテイメント性を高めたバラェティショーなるワイドショーの隆盛は、本来単なる報道員のアナウンサーに、キャスターやレポーターなどの職務を割り当て、限りなくエンターテナーに近づけて来た。特に女性アナウンサーに、それが顕著であったと思う。これはテレビ局にも、当の女性アナウンサーにも、避けられない潮流だった。またアナウンサーの側にとって活動範囲の拡大は歓迎されてもいた。
辛うじて報道機関として孤塁を守る公共放送のNHKといえども、視聴率獲得のためには、例外であり得なかった。

アメリカ放送界の影響を受けた日本の民放各社アナウンサーたちのエンターテナー化は、テレビ局の報道からの離脱の表れである。広告媒体としての需要を重視すれば、そうなることは必然だった。

今や民放テレビ局から報道機関としての矜持は視聴者に伝わってこない。その延長上に今回の中居事案の発生があると思う。もはや民放テレビ局に、報道ジャーナリズムとしての立ち位置は残っていなかったということだろう。

電波という、枯渇することのない国民の共有資産を寡占(民法各局)し、映像という無限の商品を継続的にスポンサーに販売し続けて来たテレビ局は、凡ゆる産業にとって、マーケティングの上で無くてはならない広告情報産業にのし上がった。70年の長きに亘り、放送産業は、無限の富を生み出す夢の産業として、経済社会に君臨して来た。

このある種錬金術的な産業は、発足以来巨大化の一途を辿り、そこで働く人々、上は経営トップから下は末端の社員までをも、知らず知らずのうちに特権意識に染めてしまう力をもっていたようだ。テレビ局の社員ばかりか、番組に出演する部外の俳優・歌手・お笑い芸人・タレントまでもが、同様の特権意識に毒されているように思う。

特に視聴者に人気の高いタレントを抱える芸能プロダクションは、今日ではテレビ局にとって最も重要な関連産業である。芸能プロダクションはもはやテレビ局の下請け企業でなく、 番組の生殺与奪権を握る存在である。彼らとの良好な関係の構築と維持は、民放テレビ局の編成部門や制作部門の役員の重要な職務となっているらしい。

電波は国民ものであり、その利用権を国民の幸福のために国家が免許している媒体である。
テレビ局で働く人々の中には、その公益性故の特権を私生活に反映させ、自らの野心や欲望を満たす手段にする者も現れてくる。放映によって人気・知名度を得た芸能プロダクションに所属するタレントたちと、そのタレントたちを使って番組をつくり編成するテレビ局の社員たちが狎れ合い癒着すると、スポンサーや視聴者に知られたくない、甚だ醜い構図が出来上がる。テレビ局は電波の利用権・放映権を、それと気付かず濫用してしまう可能性が大きい。

改めて電波法第一章第一条を参照する。


第一章 総則

第一条 この法律は、電波の公平且つ能率的な利用を確保することによつて、公共の福祉を増進することを目的とする。

今日のテレビ局は、公共の福祉の一部たる報道機関の役割から大きく後退し、単なるエンターテイメント産業になっている。中でも芸能プロダクションとテレビ局のエンターテイメント部門とは、狎れ合いと癒着が瀰漫しているらしい。

テレビ局の中でもタレント性のあるアナウンサーは、退職して芸能プロダクションのマネージメントを受け、番組に出演する。これらOBのフリーランス・タレントは現役社員の先輩であり、若手社員は知らず知らずのうちに芸能プロダクションの影響を受ける立場になる。芸能プロダクションが、局の制作の現場に絶え間なくインベージョン(浸透)するようになると、番組制作の環境は劣化の一途を辿るだろう。
これでは、テレビ局のエンターテイメント番組の品質の低下に歯止めがかからない。低俗・安直の謗りは免れないだろう。

国民にエンターテイメントが少なかった時代、テレビ番組の品質が一定の水準に保たれていたのは、エンターテナーの需給が、程良いバランスを保っていたからではないか。才能あるエンターテナーは本来数が少ないもの。エンターテナーを濫造していれば、道義に悖る者も現れるのは避けられない。

現下のテレビ局が、茶の間の求める質の良いエンターテイメント番組を放映していないことだけは慥かである。


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2 コメント

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Unknown (tributary)
2025-02-07 12:25:47
テレビ業界は金まみれとなり、報道機関としての矜持を失った。軽蔑の対象にすらなりつつある。自省を促したい。
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Unknown (tekedon638)
2025-02-07 16:57:34
@tributary tributary様

コメント有難うございました。

新聞は購読者の減少に歯止めがかからず、テレビ局は視聴者の信頼を失い気味。
第四の権力マスメディアがグラつくようでは困りますね。
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