モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

バラの野生種:オールドローズの系譜⑥ イスラムから伝わったバラ

2008-12-04 01:24:16 | バラ

イスラムから伝わったバラ
ゲルマン人が破壊した古代ギリシャ・ローマの文化・文明は、イスラム圏に受け継がれ
ヨーロッパに再移入する。
バラも例外ではなかった。

オーストリアン・ブライアーの流れ==イスラム圏の勢力拡大による
8世紀小アジア原産の黄色いバラと花弁の表面がオレンジ色で裏面が濃い黄色のバラがアフリカ北部沿いにイスラムの勢力拡大に伴ってスペインに伝わった。

もう一つの経路が、オーストリアにも同じものが伝わり普及した。

黄色いバラをオーストリアン・ブライアー・ローズ(Austrian Brier Rose)或いは、
オーストリアン・イエローローズ(Austrian Yellow Rose)と呼び、
オレンジと黄色のバラをオーストリアン・カッパー・ローズ(Austrian Copper Rose)という。

(写真)オーストリアン・ブライアー・ローズ

出典:
http://www.ashdownroses.com/index.asp?PageAction=VIEWPROD&ProdID=1231

この花の特色は、花色が濃黄色で、花径5-6cm、花弁が5枚で、香りが臭いほど強い。
学名をローザ・フェティーダ(Rosa foetida Herrmann)という。
オールドローズの系譜④に掲載

このバラは、古代ギリシャから栽培されていた品種であり、
イスラムによってイベリア半島まで運ばれていき、
オーストリアには1542年頃までには伝わっていたという。
イギリス・オランダには、16世紀の終わりにオーストリアから入ったので
オーストリアン・ブライアーと呼ばれる。

そしてこの種の中で、ハイブリッド・ティーの黄色の親となったのは、
1837年頃ペルシャからヨーロッパに伝わった
ロサ・フェティダ・ペルシアーナ(Rosa foetida persiana(Lemaire)Rehder)だ。

(写真)ペルシアン・イエロー・ローズ

出典:
http://www.hevosmaailma.net/Sirpa/Kasvisivut/persiankeltaruusu.shtml

英名がペルシアン・イエロー・ローズ(Persian Yellow Rose)、濃い黄色、花径5-6cm、
花弁数60-80+20枚で、花の中心が4個ぐらいに分かれる。
この、ペルシャ原産の黄色いバラは、ヨーロッパに紹介されて話題を呼んだ。

日本にも来たドイツ人医師のケンペル(1651-1716)は、日本に来る前にペルシャによっているが
そのケンペルが書いた『廻国奇観』(1712)の中で、古都ペルセポリスには広大なバラ園があり、
ペルシャ南西部の高地シラズではバラの花を蒸留して精油を採っていたことが書かれている。
ヨーロッパでは1801年のジョゼフィーヌからバラ園がはじまるので、
イスラム圏のバラ栽培の成熟さが垣間見られる。

フレンチ・ローズの流れ==十字軍の遠征がはじまり
11世紀から始まった十字軍の遠征は、イスラムの文化と文明を中世ヨーロッパにもたらすこととなる。

フランスのシャンパニュー伯ティーボルト4世が十字軍の遠征の帰路に、パレスチナからロサ・ガリカを持ち帰る。
近縁種との自然交配などで濃い赤色の品種が出来上がり、フレンチ・ローズという系統が出来上がる。
フレンチ・ローズは、濃い赤色のバラの祖先とも言われる。

十字軍の遠征は、イスラム文化をヨーロッパにもたらしたが、このときにバラの鑑賞も再輸入したようだ。
この結果、13世紀以降の聖堂のステンドグラスにはバラ窓が作られるようになり、
14世紀のマリア賛歌にはバラが歌いこまれる。
聖母マリアをバラで飾るようになったのもこのころからで、ルネッサンス以降の絵画には
バラの絵が増える。

ばら戦争
イギリスには野生のバラがあるが、ローマ帝国の属州になったAC1世紀ごろローマのバラが伝わり、
プランタジャネット朝(1154-1399)のエドワード1世(1239-1307)の時に
王室の紋章として金色のバラが採用される。

プランタジャネット朝は後にヨーク家(白バラ)とランカスター家(赤バラ)に分かれ、王位継承権で争う。
これがばら戦争(1455-1485)である。

ヨーク家の白バラの由来
ヨーク家の白バラは、ユーラシア大陸に広く生育しているローザ・アルバ(Rosa alba)と信じられている。
1236年イギリスのヘンリー三世(1207-1272)がプロバンスのエレアノルと結婚した。
彼女はこの時既に白バラを自分の紋章としていた。
息子のエドワード一世(1239-1307)は、これを受け継ぎこの花を国璽(こくじ)に取り入れた。

ランカスター家の赤バラの由来
ランカスター家の紅バラは、エドワードの弟エドモンドの紋章で、最初のランカスター伯となった。
1277年頃シャンパニューで反乱が起きたとき
この地を結婚持参金として手に入れていたヘンリー三世が息子のエドモンドを派遣し反乱を鎮めた。
エドモンドはフランスで3~4年過しイギリスに戻る時紅バラを持ち帰った。
エドモンドはこの花を自慢にし、兄の白バラよりもはるかに素晴らしいと思いこれを自分の紋章とした。

イギリス王室の紋章の由来
ばら戦争は彼ら兄弟の子孫が争うことになるが、
紅バラのランカスター家ヘンリー7世の勝利で終わり、ヘンリー7世はヨーク家のエリザベスを妻とし、
チュードル・ローズと呼ばれる白バラの中に赤バラを納めたものを紋章とし、
これがイギリス王家の紋章となった。

バラ戦争(1455-1485)は、
30年もの長きにわたる骨肉の争いとなる無益な戦争を続け10万人もの命をなくしたというが、
バラの刺で流した血ではなく、人間の“憎しみ”という心の刺と、
それぞれの属する集団・組織の果てしない欲望がもたらしたもののようだ。

余談 ばら戦争から学ぶ現在の状況
トップのドライバーがハンドルから手を離すと、マシーンはコントロール不能となり暴走する。
ばら戦争もこんな状況でおきたもののようだ。そしてばら戦争は、いまの世相にこんな標語を残す。
『飲むなら乗るな。運転出来ないならなおさら乗るな。』
民の信任を受けない無免許のトップは、酔っ払い運転と同じということだろうか・・・・

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