5.確率を超えた運命的な出会い
ジョゼフィーヌ、ナポレオンの生い立ちを見ると歴史の偶然と必然にぶち当たる。
歴史に“ If ”ということはないが、ちょっとした手違いが世界の歴史を大きく変えたかもわからない。それが二人の誕生日にあった。
ナポレオンは、1769年8月15日コルシカ島の最下級貴族の家に生まれた。
このコルシカ島がジェノバ共和国からフランスに割譲されたのは、ナポレオンが生まれる1年3ヶ月前だった。
しかし、コルシカ島の住民はフランスの支配を嫌い、1年以上も反乱をした。父シャルル・ボナパルト、母レティツィアもナポレオンをお腹に宿し反乱に加担して戦ったという。そして、実質的にフランス領を受け入れたのは、ナポレオンが生まれる直前のことというからかなりギリギリでフランス国籍を取得したことになる。
ナポレオンがイタリア人だったらヨーロッパの歴史・地図は今とは大きく異なっていただろう。
一方、ジョゼフィーヌは、1763年6月23日カリブ海に浮かぶマルチニック島で生まれた。
祖父がナポレオン家同様にフランスの最下級の貴族であり、新天地を求めマルチニック島に移住した。この島は、コロンブスが発見し“世界で最も美しい”といわれたところで、現在はフランスの海外県の一つだが、フランスとイギリスがこの島の領有を争っていて、イギリスに占領されたマルチニック島がパリ条約でカナダと交換でフランス領に戻ってきたのは1763年2月10日だった。ジョゼフィーヌが生まれる4ヶ月前だった。
1年後には再びイギリスに占領されるので、これもきわどいところでフランス国籍を取得したことになる。
こんなきわどい出生をした二人は、歴史を書き換える大革命をすることになる。
ナポレオンは政治の世界で、ジョゼフィーヌは植物学・バラの世界で。
(写真)皇后ジョゼフィーヌ

6.ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園の夢
『庭に外国の植物がどんどん増えていくのは大きな喜び、マルメゾンが植物栽培のよきお手本となり全国諸県にとってマルメゾンが豊かさの源泉になって欲しい。南方や北アメリカの樹木を育てているのはこのためで、10年後には私の苗床から出た珍しい植物を一揃い持つようになることを願っている。』(出典:『ジョゼフィーヌ』安藤正勝 白水社)
ジョゼフィーヌは本気だった。ということがよくわかる。
マリーアントワネット同様に結構浪費したようだが、下級貴族から皇后になっただけにお金の価値と相場を知っていて、“殖産興業”をも知っていたようだ。
「ジョゼフィーヌ。用心するがよい。ある夜、ドアを蹴破り、私がいるぞ!」というナポレオンからの警告があったのは、1796年の頃であり、遊び人からここまで変身したジョゼフィーヌはまるで別人となったようだ。
「身持ちがよくなった、思慮深くなった、こんなジョゼフィーヌはジョゼフィーヌではない」と言い切って最後の文章を書いたのは『ナポレオンとジョゼフィーヌ』の作者ジャック・ジャンサンだった。
ナポレオンはジョゼフィーヌと結婚したがゆえにイタリア戦争に勝利したようであり彼に運をもたらしたことは間違いなさそうだ。
だが、離婚によりナポレオンは、自分の血筋を求めるという同族経営を目指し破綻する。
お払い箱されたジョゼフィーヌは、バラの新しい血筋を作り出す出発点に立ちバラたちに運を分け与えた。
ナポレオンも一緒にバラを栽培していたら違った世界が開けただろう。
歴史に“ If ”はないが、相当の低い確率で運命的に二人は出会い、男の革命と女の革命を行った。
ナポレオンは、革命を旧体制化して守ろうとしたので破綻し、ジョゼフィーヌは自己改革に追い込まれたのでバラにたどり着いた。
という男と女の革命の結末だったのだろうか?
余 談
20世紀までは、偉大な人たちが歴史を構成してきた。ナポレオン、ジョゼフィーヌたちのように。
記録され、発信されるメディアが希少であり・高価であるため捨てるものを多くつくらなければならなかったことも一因としてある。
現在は、未来に残るかどうかは別として、記録され、発信できる環境にあり“私の歴史”を残すことが可能になった。
きっと男と女の物語が数多く記録されているのだろう。