モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

バラの野生種:オールドローズの系譜⑨ 同時代。江戸の園芸とバラ

2008-12-11 10:05:21 | バラ

バラの歴史を変えたのは中国と日本のバラだが、中国でも日本でもバラはそれほど尊重されなかった。何故だろうかという疑問があり、いくつかのチェックするべきことがありそうで、この疑問点を解いておこうと思う。
チェックすべき点は、
・バラだけでなく園芸そのものの興味関心がなかったかのだろうか?
・栽培・品種改良などの園芸技術が遅れていたのだろうか?
・バラ自体が好き嫌いの対象から外れていたのだろうか?

江戸の園芸の水準
ジョゼフィーヌがバラ作りに熱中した1800年頃の日本の園芸の水準は、極めて高かったといっても良さそうだ。その最大の要因は江戸時代の平和にある。ヨーロッパはフランス革命、ナポレオン戦争など戦乱が続いていたのに対して、競争という刺激がないかわりに戦争で国富を蕩尽しなかった稀有な環境ともいえる。

家康、家忠、家光と三代続いて園芸が趣味だったようだ
それも相当のマニアで家光に至っては、大事な盆栽を寝所のタンスのようなものに保管して寝ており、これらに粗相をすると打ち首ともなりかねないほどの下々にとっては危険物でもあったようだ。
明智光秀が謀反を起こしたのは、信長(1534-1582)の大事にしている鉢物に粗相をしたことをネチネチと手ひどく罵られたことが遠因とも言われている。(らしい!)

貴族から粗野な武士に、そして江戸の平和が幕府の官僚・庶民にまで園芸を広めることとなる。将軍様が熱中しているものを禁止できるわけがない。上から下まで右ならえが平和な時代の処世術なのだから。

ツンベルク、リンネの頃は、自由に江戸を歩くことが出来なかったが、幕末の1860年に江戸に来たイギリスのプラントハンター、フォーチュン(Robert Fortune 1812-1880)は、染井(現在の東京都駒込)から王子にかけての育種園の広さ、花卉樹木の種類の豊富さ、観葉植物栽培品種の技術力などに感嘆しており、世界の何処にもないほどの規模といっている。
それだけ江戸の園芸市場が成長発展していた証左でもある。

また町を歩くと庶民、(フォーチュンは下層階級と書いているがこれ自体でイギリスの植物の顧客がわかる。) の小さな庭にも花卉植物・樹木がありこれにも驚いている。イギリスではフォーチュンの言う下層階級までまだ描き植物が普及していなかったのだろう。
江戸時代には、「苗や~苗。苗はいらんかね!」という苗売りが辻々を廻ったようだから驚くにはあたらない。
なお、フォーチュンは、中国の茶をインドにもって行き紅茶栽培に寄与した著名なプラントハンターであり、かつ、幻のバラを中国で再発見しているのでどこかでまた登場してもらう。

江戸時代の中頃からは、当然希少なものを集め、それを開示するサロンが生まれ、品種改良の競争が始まり、これを競う競技会=花あわせを開き、番付をつくるなどマニア化が進む。

珍品コレクターの代表は、無役の旗本 水野忠暁(みずのたたとし1767〜1834)で、葉や茎に斑(ふ)が入ったものを収集した。この集大成として『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』 (1829)を出版した。
(参考) 『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)


出典:国会図書館『草木錦葉集』

斑入りの変種などを園芸品種として栽培するという風習はヨーロッパにはなく、江戸時代後期に日本に来たプラントハンター・植物学者は、斑入りを持ち帰った。
日本の植物というと斑入りという神話がヨーロッパで出来上がる。
しかし、江戸期は実用的な品種改良は苦手で、遊びの世界での改良には熱心に取り組んだというから、旗本の次男三男の就職先がない時間つぶしと内職という世相を受けたどこか浮世離れしていたのだろう。

喪失したバラの美
このように江戸時代の状況を見ると、中国から13世紀には伝わってきたというコウシンバラ及びモッコウバラなどが栽培されていたようだが、バラは魅力がなかったとしか言いようがない。或いは、魅力に気づく権力者がいなかったのだろう。神社仏閣、武家屋敷、豪商などが望んだ絵画に描かれることもなく、浮世絵に描かれることもなく、花札にも描かれず、美としての対象にならなかった。

ヨーロッパでは、キリスト教がユリ、バラなどを純潔、殉教の象徴として教会の絵画・ステンドグラスなどに描かれた。
バラは、西洋=キリスト教と結びつき教会が育てた花で、日本では、キリスト教の侵入を阻止する鎖国がバラの美の輸入をシャットアウトしたと言い切れるかもわからない。
原種は輸出或いは持っていかれたけど、鑑賞する美意識は輸入禁止に引っかかり、明治にならないとその美しさは発見されなかった。

万葉集には防人として上総の国から九州の地に行く兵士が別れを詠ったものがある。
この詩には、現存する文献で最初にバラが記述されているので知られているものだ。

「道の辺の 刺(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を 離(はか)れか行かむ」

“道端に咲いているバラの先にはいまつわっている豆、それではないがまといつく貴女と別れていかなければならないのだろうか”
刺=(うまら、うばら)がバラを指すようだが、この万葉のピュアーなバラに擬せる感覚がどこかで消えてしまったようだ。

バラを愛した詩人北原白秋(1885-1942)『薔薇二曲』という詩がある。

薔薇ノ木ニ
    薔薇ノ花サク。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。

    二
    薔薇ノ花。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。
 
    照リ極マレバ木ヨリコボルル。
    光リコボルル。

このおおらかでのびのびした詩は、万葉のこころを取り戻した詩のようでもあり、万物流転の一瞬を切り取ったストップモーションのような緊張感もある。
また、江戸が東京になって生まれた詩でもあり、バラの美しさが再発見された詩でもある。

(オールド・ローズの系譜=完=)
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