モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No2

2010-04-10 19:17:08 | メキシコのサルビアとプラントハンター
No2:大探検家が発見した サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)

(写真)サルビア・ミクロフィラの園芸品種“ホットリップス”の花


「サルビア・ミクロフィラ(Salvia microphylla)」は、メキシコ・チワワ周辺が原産地で、アメリカ合衆国南部からメキシコ南部までのゴツゴツとした岩肌の荒地に分布し、その樹高は1m程度の潅木に生育する。
種小名の‘microphylla’は、ギリシャ語で“小さな葉”意味するように、卵形のザラザラした小さな葉であり、押しつぶすとミントのような薬臭い香りがする。花柄を摘んだ時に漂うこの香りがなんとも言えず気持ちがよい。

葉の形で、細長い楕円形の「サルビア・グレッギー」と区別されるが、「サルビア・ミクロフィラ」は他種と交雑しやすく、数多くのハイブリッド品種が生み出され、わかっているだけでも45種がある。実際はもっとあるのだろう。

この「サルビア・ミクロフィラ」が園芸市場に登場したのは、1990年代からのようでわずか20年で日本の庭にもかなり普及している。
しかし、ヨーロッパ人に発見されたのは1800年代の初め頃であり、庭に普及するまで150年以上が経過している。その素朴な美的価値が評価されるまで結構長い時間がかかった。

英名では、葉の特色から“Baby sage,”、或いは、発見者の一人であるグラハムの名を取って“Graham's sage”とも呼ばれる。
日本の園芸店では、「S.グレッギー」「S.ミクロフィラ」「S.ヤメンシス」3種及びその交雑種を含めて“チェリーセージ”として販売されていることが多い。

この3種は、メキシコの1000-3000mのところに生育しているが、低地から「S.グレッギー」、2000m前後のところに「S.ミクロフィラ」、この自然交雑種である「S.ヤメンシス」が2500m前後のところまで入り混じって咲いているという。
ということは厳密に言うと生育温度の違いがあるので、この「チェリーセージ」という表示はそろそろやめてもらいたいものだ。

「サルビア・ミクロフィラ」を発見したプラントハンター
「S.ミクロフィラ」は、“グラハムのセージ”とも呼ばれているので、“プラントハンター、グラハム”というタイトルで書き出そうかと思っていたが、意外なことを見つけてしまった。

大探検家の“フンボルト”とその盟友“ボンプラン”が出てきてしまったのだ。

これは後ほど明らかにすることにして、
キュー王立植物園のデータベースでは、「サルビア・ミクロフィラ」の採取者(プラントハンター)として4名が記録されている。
1.グラハム(Graham ,Robert 1786-1845)
2.クォールター(Coulter, Thomas 1793-1843)
3.プリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)
4.s.coll:不詳

グラハム(Graham ,Robert 1786-1845)は、スコットランドの医師・植物学者で1821年にエジンバラ大学の植物学教授となり、1820年から死亡する1845年までは王立エジンバラ庭園の管理者でもあった。彼は1830年にメキシコで「サルビア・ミクロフィラ」を採取した。記録上ではこれが最も早い採取年であり、“グラハムのセージ”といわれた理由がうかがえる。

クォールター(Coulter, Thomas 1793-1843)は、アイルランドの医者・植物学者・探検家で、1800年代初期にメキシコ・アメリカ南部の植物探索をした探検家として知られている。この時期はわからなかったが自ら未来を切り開くために、メキシコの金・銀鉱山の町Real del Monteの会社の医者として勤め、この期間にメキシコ・アリゾナ・アルタカリフォルニアの植物探索を行い、1834年にアイルランドに帰国する。
メキシコ滞在の1824年から1827年までの3年間にわたるベラクルーズへの探検旅行は、スミソニアン研究所(スミソニアン協会は1848年に設立)が支援したようであり、アメリカとの交流もあったようだ。
アイルランドに戻ってからは、ダブリンのトリニティ大学に植物標本館を作りそこの管理者となった。
このような経歴から見ると、「サルビア・ミクロフィラ」を採取したのはグラハムと同じ頃のようだ。

プリングル(Pringle, Cyrus Guernsey 1838-1911)は、アメリカの植物学者というよりはプラントハンターで、35年をかけて北アメリカ特にメキシコの植物カタログを作るのに精力を傾け、約20,000種という驚く数の植物を採取し、1200もの新しい種を発見し記述した。
サルビアの新種でも27種を発見していて、「サルビア・ミクロフィラ」に関しては、1885年メキシコのチワワ付近の岩山で発見採取した。
この圧倒的な数を誇るプリングルは、プラントハンターとしても稀有な存在であり、別途このシリーズでとりあげたい人物なのでこの程度とする。

「サルビア・ミクロフィラ」の学名は、“Salvia microphylla Kunth”で、1818年にクンツ(Kunth, Karl(Carl) Sigismund 1788-1850)によって命名された。
クンツは、ドイツの植物学者で、1820年からベルリン大学の植物学教授。1829年に、南アメリカに出航して、3年の間、チリ、ペルー、ブラジル、ベネズエラ、中央アメリカ、西インド諸島を旅行し、この当時のアメリカ大陸植物相の権威でもあった。

命名の時期が1818年であり、このことは、グラハムが採取する1830年以前に「サルビア・ミクロフィラ」を採取して発表したもの(文献・ヒト)があることになる。

さらにクンツのことを調べると、
クンツは、1813-1819年の間、中南米の探検からパリに戻ってきたドイツの探検家フンボルトのアシスタントとして働き、フンボルトと彼の盟友ボンプランが採取した植物を分類し、これらを元に新世界アメリカの植物相を書いた画期的な本「Nova genera et species plantarum 」(1815-1825)がボンプランの名前で出版された。クンツも著者として末席に記載されている。

「サルビア・ミクロフィラ」は、この本に掲載されていたのだ。

フンボルトとボンプランはいつメキシコの植物探索をしたか?
フンボルト(Humboldt, Friedrich Heinrich Alexander, Freiherr von 1769-1859)は、ドイツの博物学者・探検家・地理学者で、1796年に母親から膨大な遺産を引き継ぐ。名も無きプラントハンターは写真すら残せないが、フンボルトは違った。立派としか言いようがない肖像画(Joseph Karl Stieler作)が残っていた。

この膨大な遺産を元に1799年から1804年までラテンアメリカの探検を行い、この探検にはフランスの植物学者・探検家ボンプラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre 1773-1858)が同行した。

(写真)フンボルト探検隊の行動マップ


フンボルト及びボンプランのラテンアメリカ探検のことは他の文献・資料にお譲りすることにして、メキシコ、「サルビア・ミクロフィラ」との係わり合いに焦点を絞ることにする。

フンボルト探検隊は、南米探検のあと太平洋側のメキシコ、アカプルコに1803年3月22日に上陸した。陸路でメキシコシティに向かい1803年4月12日に到着した。
1804年3月7日キューバに向けて出航するまでの約1年間はメキシコの各地を探索する旅を行った。
「サルビア・ミクロフィラ」は、この1803年から1804年のメキシコ滞在の時に採取されたことになり、1830年に採取したグラハムより早く発見したことになる。
そしてこれらの標本をクンツが分類し、新種には新しい名前を命名して出版することになる。

メキシコ後の植物学者ボンブラン
フンボルト探検隊は、1804年5月20日にフィラデルフィアに到着し、6月1-13日はワシントンにてトーマス・ジェファーソン大統領と複数の会議を行う。そして、1804年8月3日にフランスのボルドーに帰還し、1804年8月27日にナポレオンが皇帝になる直前のパリに到着した。
フンボルト、ボンプランは時代の寵児として、パリで大歓迎されたことは言うまでもない。

(写真)ボンプラン(Bonpland, Aimé Jacques Alexandre)
         
出典:Australian National Herbarium

パリ帰国後のボンブランは、ジョゼフィーヌ皇后に珍しい植物の種を献上するなどをし、彼女が1799年に購入し、いつくしみ育てているマルメゾン庭園の管理者に1804年に就任し、1814年にジョゼフィーヌは死亡するが、翌年の1815年までこの地位に留まる。

この間のボンブランは、ラテンアメリカ探検旅行で60,000種に及ぶ植物標本を採取し、新発見した植物などを「Plantes equinoxiales」としてまとめ1808年にパリで出版した。

また、1812-1817年にはマルメゾン庭園にある珍しい植物を書いた「Description des plantes rares cultivées à Malmaison et à Navarre」を出版している。この本の植物画はルドーゥテ(Redouté,Pierre Joseph, 1759-1840)が54点を描いている。

ジョゼフィーヌ死亡後のボンプランは、1816年に南米ブエノスアイレスに渡り、南米で波乱万丈の人生を送ることになる。
南米を探索したプラントハンターのところでまた登場してくれると思われるので続編を書きたいものだ。


【マルメゾン庭園の参考】
バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No1
バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No2
バラの歴史を変えたジョゼフィーヌ,No3


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