モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その4.セイヨウシャクナゲの花 と ツツジ と プラントハンター

2010-04-27 11:53:15 | 中国・ヒマラヤのツツジとプラントハンター
その4:
中国の奥地を探検したフランスの宣教師達の元締め、フランシェ。

リバプールの綿花仲買人ビュアリー(Bulley, Arthur Kilpin 1861-1942)が派遣したプラントハンター第一号が、シャクナゲとサクラソウのプラントハンターとして知られるフォーレスト(Forrest, George 1873-1932)で、1904年8月にビルマ経由で中国雲南省Talifu(タリ)に着いた。
フォーチュンが中国に初めて来たのが南京条約締結の翌年1843年で、4度目の訪中が1858-1861年(1860-1861は日本訪問)だから、40年以上もたってから来たことになる。

フォーチュンの活動が終わった1860年代以降、英国のプラントハンターの中国での活動が停滞し、フランスの宣教師達が活躍する。

この時代の歴史を簡単におさらいしてみると、
1858年は、英国東インド会社の解散があり、また、後のベトナム戦争につながるフランスのコーチシナ・ベトナムの植民地化が進行していた年でもある。
中国・清朝はといえば、太平天国の乱(1851-1864)が起こり、軍事力の弱体化、官僚の汚職腐敗などが露呈し漢民族の復興というナショナリズムが芽生える。

産業革命で原料調達と製品を販売する植民地市場を求めて、ヨーロッパ勢力が直接的な植民地政策を南アジアから東アジアに展開し始めた時期であり、東アジアは略奪と暴力と抵抗が続いた不安定な時期でもあった。

ヨーロッパ人のプラントハンターにとって生命の保証がない危険な時期でもあり、ヘンリー、オーガスティン(Henry ,Augustine 1857-1930)のように清朝に雇用された人間でないと、中国の内陸部まで入り植物採取を行う安全が担保できなかったのもうなずける。(ヘンリーが中国にいた時期、1881-1900)

フランスのプラントハンターのハブとしてのパリ国立自然誌博物館とフランシェ
もう一つ例外があった。それはフランスの宣教師達であった。
宣教師個人の趣味での植物採取ではなく、フランスとしての国家の意思を体現したまとまりがあり、扇の要、鵜飼師的な存在がパリにあった。英国で言うとバンクス卿と王立キュー植物園的な存在があったことになる。

(写真)フランシェ、アドリアン・レネ肖像画
        
(出典)wikimedia

フランスの植物探索のキーマンは、パリ国立自然史博物館のフランシェ(Franchet, Adrien René1834-1900)だった。

王立キュー植物園に匹敵するのがパリにある「国立自然史博物館」だが、フランス革命期の1793年に市民(フランス革命なので)の知的水準の向上を目的に設立された。その前身は、ルイ13世によって1635年に設立された王立薬草庭園(Royal Medicinal Plant Garden)であり、今では、植物園・動物園。博物館などを有する研究機関として科学振興のセンターとなっている。

この博物館の研究テーマが7つあるそうだが、プラントハンターのハブとして機能していたのがフランシェであり、彼は中国で活動する宣教師たちをハンターして、彼に送られてきた採取した植物標本を分類・研究し、それらをまとめて『ダビッド氏採集中国産植物』(Plantae Davidianae ex Sinarum Imperio),『デラヴェ氏採集植物』(Plantae Delavayanae)等を出版した。

また彼は、中国だけでなく日本の植物相の研究もしていて、フランス海軍の医師として1866年に来日し植物を収集したサヴァチェ(Savatier, Paul Amedee Ludovic 1830-1891)との共著で『日本植物目録』を出版した。

このようにフランシェは、ダビッド(David ,Jean Pierre Armand 1826-1900)デラヴェ(Delavay, Père Jean Marie 1834–1895)ファルジュ(Farges ,Paul Guillaume 1844–1912) といった中国滞在の宣教師をプラントハンターとして仕立てて中国奥地の数多くの植物を採取しその分析を行った。

しかし彼の死後、彼の元には蓋を開けていない植物標本などが多数残り、徐々に散逸していったという。組織・システムを構築してこれらを上手に活用することが出来ていればと悔やむのは私だけだろうか? 
この点では、フランシェはまじめな学者であり、政治的能力があったバンクス卿になれなかった。といえそうだ。
ただ、フランシェがいたからこそ、宣教師達が活躍できたことは間違いなく、彼ら宣教師達の名前も残った。
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