モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

はじめてのフランス料理、サーモンのムニエル&きのこ添えケッパーソース。

2008-12-17 10:21:27 | 男の料理

上野駅のブラッスリー・レカン丸の内にあるブラッスリー・オザミのフランス料理を食べてから
素材の味を生かした薄味で和食の良さを取り入れたフランス料理があることに気づき
これはいけると思いつくってみることにした。

(写真) 『いちばんやさしいフランス料理』ネーミングがいいね!



手はじめは、料理本を物色することからはじめ
カタログ的で余分な文字がなく使いやすそうだった『いちばんやさしいフランス料理』を購入した。

この本は、完成イメージ(1ページ)、材料、作り方(1ページ)が、
見開き2ページ内にホワイト部分を多くしておさまっているのがうれしい。
見開き2ページに4つの料理が載っている情報満載的なものもあるが、これはいただけない。
一を知り、それを使いまわしていく“応用”“工夫”“創造”を発揮させなくさせてしまう。

冷蔵庫にサーモンのブロックがあるので、これを使ってはじめてのフランス料理にチャレンジしてみた。

名付けて
「サーモンのムニエルとケッパーソースきのこ添え」
本の材料と冷蔵庫にある材料が異なったので、冷蔵庫にあわせて修正してつくった。

初めてのフランス料理なので、何がフランスで、イタリアとの違いはわからないままだが
味の淡白なサーモンには、ソースが重要でクッパー+レモンは燻製のサーモンにも使われており
このソースがポイントとなる。

【材 料】 (4人分)
生鮭              4切れ(約500グラム)
塩・コショウ          適量少々
薄力粉             適量
(バター             60グラム)オリーブオイルに変更

<ソースの材料>
バター(マーガリン使用)      30グラム
ケッパー            大さじ2
レモン汁            1個
ルッコラ(イタリアンパセリが指定) 粗みじんぎり1/2袋
塩・コショウ          適量

<付け合せ>
きのこ類            シメジ1、エノキ1
ルッコラ            1/2袋

【つくり方】
1.鮭は皮を取り水分をふき取り、塩・コショウをして薄力粉をまぶす。
2.フライパンでオリーブオイルを温め、鮭の表面を中火で火を通す。
3.焦げ目がついたら裏返して弱火で焼く。焼きあがったら取り出す。
4.同じフライパンで、バターを足し、きのこを炒める。
5.小さなフライパン(鍋)でソースを作る。まずバターを中火で溶かし、ケッパーとレモン汁をいれ、塩・コショウで味を調え、粗みじん切りしたルッコラを加えて混ぜる。
6.鮭、きのこを盛り付けソースをかける。ルッコラを飾り付ける。

(写真) はじめてのフランス料理by『いちばんやさしいフランス料理』


【評 価】
サーモン自体味が淡白なのでくせのあるモノが欲しいが、
酸味でピリッとしたケッパーとレモンの組み合わせがベストということがよくわかった。
そして、ソースと付け合せにイタリアンパセリとかかれていたが、
よりくせのあるルッコラ(ワサビのようにピリッとしたゴマ風味)は、あっていたようだ。

マイナスポイントは、サーモンの場合は、マーガリンではなくバターの方がよかったかもしれない。

いたって簡単で、“いちばんやさしい”というネーミングは間違っていなかった。
しかし、何処がフランス料理なのかまだ理解できていない。
普段でもやっている料理なのでは?? 
という疑問があるが、つくれるレシピが一つ増えたから大満足だ。

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ブラッスリー・オザミと丸の内仲通りの驚き

2008-12-16 10:08:00 | グルメ

日比谷から大手町に向かう丸の内仲通りと有楽町東京国際フォーラム正面からの道がクロス所に
フランス料理 Brasserie Lecrin AUX AMIS(ブラッスリー・オザミ)がある。
この店は、ブログメイトの方から教えてもらった。

この界隈は懐かしいところで、社会人初めての勤務地で、
過激派に爆破された三菱重工ビルが近くにあり、昼休みの轟音と舞い上がる煙に驚き、
深夜ともなると人通りが途絶え、カップルの映画のようなシーンの名所でもあった。
その頃は、飯も食えずに残業していたので、石でも投げてあげたいほど不愉快だった。
と記憶している。

(写真)近代遺跡と超高層ビルの不思議なハーモニー


そんな危険で不愉快なところも、今では昔を思い出せないほど三菱村が激変している。
丸の内仲通りを三菱仲通りとも呼んでいるほど三菱系会社のビルが多かった。
三菱商事の跡地には、古き良き時代のモダニズムの銀行の建築物が持ってこられ、
その背後には超高層ビルがニョキ~と伸びている。

ちょっと前までは、皇居の東側に当たるため皇居が覗けないように建築物の高さ制限があり、
腕の確かなゴルゴ13からの射撃を防いでいた。

ちょうど12階ぐらいの高さで統一され、ヨーロッパのような地域・都市としての意志を持った
大人の或いは成熟した街並みを呈していた。

いまは、摩天楼となりニューヨーク化し、何を目指しているかよくわからないが、
ビジネス街から何かに変貌しつつある。

生活する場ではないので、非日常的なハレの場であることは確かだが、
六本木、汐留とは異なるゾーン開発になるのだろう。

汐留は、近場に銀座・新橋があるので、ビジネス街としての機能だけでもよかったが、
丸の内には新橋的な機能がない。
ビジネスマンの食を満たすところがないと、怒りっぽくなり石を投げたくなったりする。

オザミは、そんなど真ん中にあるので、行列が出来るほど人気があり
人気があると従業員は頭を使わなくなるので、サービスが劣化するので心配だ。

行列が出来た店は行かないというのが昔の鉄則だったが、
最近は、行列のできる前に行くという風に軟弱になってしまった。
先日は、神田やぶそばの行列に並んでしまったりした。

(写真)白身魚の蒸したものにキャベツ添え


さて味だが、このソースは抜群にうまかった。
柔らかく、やさしく、かすかにバターの味がするが十分にコクがあり
キャベツと白身魚をおいしく引き立てていた。。

フランス料理を見直した。
上野駅にあるフランス料理 Brasserie Lecrin(ブラッスリー・レカン)

そして、Brasserie Lecrin AUX AMIS(ブラッスリー・オザミ)
なかなかいいぞ。フランス料理は。
バターリッチでゴテゴテしていると敬遠していたが、そうでもなくなってきている。

もう少し食べてみないとダメだな、ということと、オザミのソースを作ってみようという気になった。
コックマインドを刺激されたオザミとレカンだった。

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ローズマリー・ロゼウス(Rosemary Roseus)の花

2008-12-15 10:17:23 | ローズマリー&ラベンダー
(写真)ローズマリー・ロゼウスの花


ローズマリーは102品種も学名が登録されているが、識別が難しく雑種化しやすいようだ。
丁度この時期がローズマリーの開花時期でもあり花の少ない冬場にはありがたい。

大部分が、ブルー或いは紫水晶のような花色が多いが、
ローズのようなピンク色の花もある。
有名なのは、“マジョルカピンク”だが、この花は、“ロゼウス”という。


立ち性で150cmほどに成長するので、素焼きの鉢などに植え
風通しの良いベランダなどに置くと、太陽の熱を吸収し夏場の涼を演出する。
こんなシーンを描いて見ていると明日が待ち遠しくなる。

(写真)一本立ちするローズマリー・ロゼウス


ローズマリー・ロゼウス(Rosemary Roseus)
・シソ科マンネンロウ属の常緑小低木。
・学名は、Rosmarinus officinalis L. 'Roseus'。
・原産地は地中海地方。乾燥したアルカリ性土壌を好む。鉢は素焼きで速く乾燥するモノがよい。
・耐寒性は強い。
・日当たりの良いところを好む。また熱を吸収するのでテラスなどに適している。
・樹高は150cmで、立ち性。
・開花期は、冬と春。ピンク色の花が咲く。
・食物の殺菌効果、調味料、老化防止としてこのエッセンスが活用されている。
・ローズマリーには、様々な品種があるが、名と実物をマッチングさせることが難しい。


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その14 フェルメール『リュートを調弦する女』に思う

2008-12-14 01:51:11 | フェルメール

展覧会を見る時の見方として、盗んでも欲しいという欲望を刺激されるものはどれだ。
という素直な見方をしている。(決して盗みませんが・・・)
今回のフェルメール展では、2点あり 『小 路』   『リュートを調弦する女』 だった。

『小 路』 は、自慢げにヒトに見せびらかす場所に飾りたい絵で、
『リュートを調弦する女』は、ヒトには見せないで隠しておく。まるで危ない浮世絵のようだがとにかく隠しておく絵だ

『小 路』については以前書いたので
『リュートを調弦する女』について気に入ったことを自分なりに称えてみたい。

まずはクリックして絵を確認していただきたい。
『リュートを調弦する女』 (作、1664年頃)ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵
http://www.mystudios.com/vermeer/18/vermeer-woman-with-lute.html

『リュートを調弦する女』の来歴
この絵は、誰かが隠しておいたせいか、保存状態が悪く相当に傷んでいた。
光と色彩の魔術師フェルメールの面目がなく、しかもちょっと前まではフェルメールの真作とは見られていなかった。

この絵が記録に登場するのは2回だけのようで、
最初が1817年であり、この絵がアムステルダムで競売にかけられ65ギルダーでコクレルスという人物が入手しているという記録がある。

二回目は、コリス・P・ハンティングトンがイギリスで6000ドルで購入し、1897年にメトロポリタン美術館に寄贈(1925年に移管)し現在に至っている。

ハンティングトン(Collis Potter Huntington 1821-1900)(Collis Potter Huntington 1821-1900)は、アメリカの鉄道王といわれ、彼の甥 ヘンリー・エドワーズ・ハンティングトンが寄贈したロスアンゼルス郊外サンマリノの彼の自宅敷地にある庭園・美術館・図書館なども有名で、ここには世界でも有数のバラ園がある。

フェルメールが歴史上で再評価されるのは、フランスの評論家トレ=ビュルガー(本名テオフィール・トレ)が1860年代にフェルメールを評価し、ここから純粋芸術の偉大な先駆者として評価されるようになるが
これ以前のアムステルダムでの競売価格65ギルダー、ハンティングトンの購入額(1ドル360円とした場合で216万円)とも極端に安く、フェルメールの真作として売られていない可能性がある。

秘匿したい絵
それにしても、来歴がよくわからず秘匿の時間が長いことだけがわかる。

隠し持っていたいもの、それは“秘められた恋”の匂いがするからではないだろうか?
ナポレオンの浮気の中でもジョゼフィーヌが最も怖がったのはこの“秘められた恋”のようで、妻が最もいやなものはどうもこれらしいと気づいた。

この仮説を『リュートを調弦する女』で検討してみると

・女性は、どう見ても既婚者に見える。しかも美しい。
・壁には、地図がかけられており、夫は海外出張中で留守のようだ。
・はっきり見えないが、女性の前にはもう一つの楽器と空いた椅子がある。
・ということは、誰かを待っている。
・でも、夫ではなさそうだ。何故? 
・楽器演奏よりは、お茶の方がいいに決まっている。旅から帰ってきた夫にとって。

地図・楽器などの舞台装置から見てもインテリジェンスが高く、窓の外を見るクールに燃える炎は、
命をかけざるをえない。
燃えッかすをも完全燃焼させるものがありそうだ。

だから余人には見せたくない。ましてや妻という人種には。
ハンティングトン氏に聞いてみたかった。

『リュートを調弦する女』と対照的な女がいたのでクリックしてみていただきたい。
 『ワイングラスを持つ娘』   (作、1659=1660頃)アントン・ウルリッヒ美術館蔵
http://www.mystudios.com/vermeer/11/vermeer-girl-with-wineglass.html

特にコメントすることもなさそうだが、命をかけることもなさそうでホッとする絵ではある。
きっと“お馬鹿チャン”なんて言うのだろう。

このような見方をするまでもなく、
フェルメールの絵は、その絵の中から人物を取り出したら(或いは消去したら)成り立たない。
確かに、この女性を取り除いたら魅力がない唯の部屋になる。そして壁と机の距離感が変で壁が前に出すぎているような感じがしてくる。

ということは、この絵は厳密な意味での写実ではなく計算ずくで構成された或いは編集された虚構があることに気づく。

フェルメールは、現実を写真が切り取るように写し取っているのではなく、
テーマ設定がされ、舞台装置がおかれ、台詞が出来ているような気がする。

ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632年10月31日 - 1675年12月15日)
フェルメール展が今日で終了になる。
そして明日はフェルメールが43歳の若さでなくなった命日に当たる。
フェルメール展のエンディングをここに設定したのは主催者のこんな意図があったのだろう。

今回のフェルメール展は、都合4回行ったことになるが実にいい企画だったと思う。
個人的には、ランチと飲み会とをセットしておいたのでなおさらおいしい企画でもあった。
蕎麦のうまいところ、フランス料理、イタリア料理、中華、すしなど値段が安く味はオリジナル性があるところにいったので満足いくところでもあった。頭だけでなく、胃袋もセンスアップしたのではないかと思う。
盗んだ味はいずれわが台所で再現させてみるつもりだ。

脱線しないで本線に戻ると、
この展覧会を一言でいうと、よくもまぁ~これだけ体系的に集めたものだ。ということにつきる。フェルメールだけでなくオランダの写実主義絵画の代表が一同にそろっており、17世紀中頃の短い時間に、同時多発的に開花したリアリズムのそれぞれの捉え方と表現の違いを見ることが出来た。

植物の世界でも、百花繚乱という言葉があるように、劇的な環境変化のときに様々な方向を向いた種が誕生し、環境適応を結果的に競うようだ。そして適応したものが生存することになるようだが、

フェルメールが時間軸を超えて光り輝いていることはいうまでもない。

今度会えるのは何処でだろう・・・・。

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その13 フェルメール展:エサイアス・バウルス『中庭の女』

2008-12-12 09:44:44 | フェルメール

1枚の絵葉書が届いた。

その絵葉書は、年末の挨拶だったが裏にある絵は、
東京都美術館で開催されているフェルメール展で、気になった絵二つのうちのもう一つだった。

その絵は、エサイアス・バウルス(Esaias Boursse 1631–1672)が描いた『 中庭の女 』だ。


(絵葉書) エサイアス・バウルス 『中庭の女』(作1660年頃)ボイマンス美術館蔵

なんとおしゃれな年末の挨拶だろう。
達筆なのか、へたなのかよくわからない自筆で書かれており判読に苦労したが
おしゃれさに免じて許してあげたくなってしまう。
いや失礼、センスのよさに感心してしまった。

ただし、このセンスのよさは私しかわからない可能性もある。
或いは、フェルメール展を見に行って、“気になった絵”として意識している人だけかもわからない。

日常という物語が語られている絵
何ということもない絵であり、
中庭に面したベランダで老女なのか熟女なのかわからないが、女が洗濯をしている。
或いは大根を漬けているのかもわからない。(?)
目の前の手すりには洗い終えた赤い布か或いは腰巻が干されている。(ちょっと短いか?)

ベランダの下にはペンペン草が生えており,左側のレンガ壁は薄汚れ始めている。
立派ではないが、貧しくもなさそうな一家の生活のワンシーンが描かれている。
部屋の中に一歩はいると・・・・といったシーンが浮かび上がりそうで、
ここから物語が始まりそうだ。

この絵は、豊かではないが貧しくもない一家の日々の労働、家事を描いた一枚であり、
勤勉・誠実・清潔な一家のありふれているが一つしかない物語が描かれている。

1660年に描かれているが、この時期では“売れないだろうな~”とも思う。
画家は描きたいものを描く。
しかし次の絵を描くためには、食って寝て絵の具代と取材費が必要だ。
売れなければ次の絵がかけなくなる。

1600年代の100年は、オランダが世界の海を支配した時期であり、
世界の物資がオランダを経由し、豊かな市民(実業家、商人など)が出現した。
彼らは、事務所、市庁舎、公共の建物、自宅である邸宅に飾る絵を求め、
宗教画とは異なる実世界のリアリズムを絵に求め写実主義絵画が勃興した。

これ以前の絵の買手は、王侯貴族・教会だったので、新しい芸術が誕生するのは当然としても、
バウルスの絵は、あまりにも今的で売れ線から外れている。と思う。

フェルメールには華があるが、バウルスには影がある。
フェルメールは、ハイソ(High societhy)に好まれる贅があるが、バウルスは余分なモノがなく素あるいは貧だ。

フェルメールにはあった、壁にかける絵・地図、テーブルに置く置物・楽器など
絵を構成する高価な嗜好品がなく、たった一つの生活必需品しか描かれていない。
ここに同世代のバウルスとフェルメールとの違いがありそうだが、
『中庭の女』とフェルメールの『小路』、何故かダブって見える。

似ている。双生児のようだ。

フェルメールは、誰に師事し絵を学んだかよくわかっていない。
前回その12で、10歳年長のカレル・ファブリティウスから影響を受け
対象をリアルに捉え心を描く「写心」を学んだのではなかろうかと推理した。

そして、光と影の描き方は、同世代のライバル、バウルスからも学んだのではないかと思えてならない。
その上で違いを、バウルスよりは、明るく、上流志向で、高価な絵の具を使い目新しい色彩で創った
と思えてならない。

フェルメールは、バウルスからもっと重要なことを学んだような気がする。

Boursse, Who are you ?
バウルスは、アムステルダムで生まれたフェルメールと同世代の画家で、
イタリアで絵の勉強をしたという以外あまり知られていない。
とにかく貧しかったようだ。
いつの世も芸術家は本業で飯が食えないのが当たり前で、パトロンと呼ばれる支援者がいなければアルバイトなどをやって食いつなぐ必要がある。

彼は、オランダ東インド会社の艦隊付け画家の道を選び、1661-1663年はスリランカに航海し、
ケープ、喜望峰、スリランカなどの街の景観や人々を描いたようだ。
そして、2回目の航海の1672年に船上でなくなった。

バウルスは、大きな宿屋を営むような裕福な父も、愛してくれる妻も、財政的な支援をしてくれる義母も、子供たちも、何もなかった。
ただあるのは、対象をリアルに見つめ、そこに物語を埋め込むだけの情熱だけだったのかもわからない。

写実的な絵画はそれだけで新しく価値がある時代に、写実だけに止まらず感情・心を描き、
さらには読み解く楽しみがある物語を埋め込んだフェルメールが後世に評価されるのは当然だろう。

そのキーコンセプトを教えたのではないかと思われるバウルス、
彼の『中庭の女』にある赤い布(腰巻)は、全てを消したがゆえに目立ち、
ここから物語が始まるような気がする。

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バラの野生種:オールドローズの系譜⑨ 同時代。江戸の園芸とバラ

2008-12-11 10:05:21 | バラ

バラの歴史を変えたのは中国と日本のバラだが、中国でも日本でもバラはそれほど尊重されなかった。何故だろうかという疑問があり、いくつかのチェックするべきことがありそうで、この疑問点を解いておこうと思う。
チェックすべき点は、
・バラだけでなく園芸そのものの興味関心がなかったかのだろうか?
・栽培・品種改良などの園芸技術が遅れていたのだろうか?
・バラ自体が好き嫌いの対象から外れていたのだろうか?

江戸の園芸の水準
ジョゼフィーヌがバラ作りに熱中した1800年頃の日本の園芸の水準は、極めて高かったといっても良さそうだ。その最大の要因は江戸時代の平和にある。ヨーロッパはフランス革命、ナポレオン戦争など戦乱が続いていたのに対して、競争という刺激がないかわりに戦争で国富を蕩尽しなかった稀有な環境ともいえる。

家康、家忠、家光と三代続いて園芸が趣味だったようだ
それも相当のマニアで家光に至っては、大事な盆栽を寝所のタンスのようなものに保管して寝ており、これらに粗相をすると打ち首ともなりかねないほどの下々にとっては危険物でもあったようだ。
明智光秀が謀反を起こしたのは、信長(1534-1582)の大事にしている鉢物に粗相をしたことをネチネチと手ひどく罵られたことが遠因とも言われている。(らしい!)

貴族から粗野な武士に、そして江戸の平和が幕府の官僚・庶民にまで園芸を広めることとなる。将軍様が熱中しているものを禁止できるわけがない。上から下まで右ならえが平和な時代の処世術なのだから。

ツンベルク、リンネの頃は、自由に江戸を歩くことが出来なかったが、幕末の1860年に江戸に来たイギリスのプラントハンター、フォーチュン(Robert Fortune 1812-1880)は、染井(現在の東京都駒込)から王子にかけての育種園の広さ、花卉樹木の種類の豊富さ、観葉植物栽培品種の技術力などに感嘆しており、世界の何処にもないほどの規模といっている。
それだけ江戸の園芸市場が成長発展していた証左でもある。

また町を歩くと庶民、(フォーチュンは下層階級と書いているがこれ自体でイギリスの植物の顧客がわかる。) の小さな庭にも花卉植物・樹木がありこれにも驚いている。イギリスではフォーチュンの言う下層階級までまだ描き植物が普及していなかったのだろう。
江戸時代には、「苗や~苗。苗はいらんかね!」という苗売りが辻々を廻ったようだから驚くにはあたらない。
なお、フォーチュンは、中国の茶をインドにもって行き紅茶栽培に寄与した著名なプラントハンターであり、かつ、幻のバラを中国で再発見しているのでどこかでまた登場してもらう。

江戸時代の中頃からは、当然希少なものを集め、それを開示するサロンが生まれ、品種改良の競争が始まり、これを競う競技会=花あわせを開き、番付をつくるなどマニア化が進む。

珍品コレクターの代表は、無役の旗本 水野忠暁(みずのたたとし1767〜1834)で、葉や茎に斑(ふ)が入ったものを収集した。この集大成として『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』 (1829)を出版した。
(参考) 『草木錦葉集(そうもくきんようしゅう)』(1829)


出典:国会図書館『草木錦葉集』

斑入りの変種などを園芸品種として栽培するという風習はヨーロッパにはなく、江戸時代後期に日本に来たプラントハンター・植物学者は、斑入りを持ち帰った。
日本の植物というと斑入りという神話がヨーロッパで出来上がる。
しかし、江戸期は実用的な品種改良は苦手で、遊びの世界での改良には熱心に取り組んだというから、旗本の次男三男の就職先がない時間つぶしと内職という世相を受けたどこか浮世離れしていたのだろう。

喪失したバラの美
このように江戸時代の状況を見ると、中国から13世紀には伝わってきたというコウシンバラ及びモッコウバラなどが栽培されていたようだが、バラは魅力がなかったとしか言いようがない。或いは、魅力に気づく権力者がいなかったのだろう。神社仏閣、武家屋敷、豪商などが望んだ絵画に描かれることもなく、浮世絵に描かれることもなく、花札にも描かれず、美としての対象にならなかった。

ヨーロッパでは、キリスト教がユリ、バラなどを純潔、殉教の象徴として教会の絵画・ステンドグラスなどに描かれた。
バラは、西洋=キリスト教と結びつき教会が育てた花で、日本では、キリスト教の侵入を阻止する鎖国がバラの美の輸入をシャットアウトしたと言い切れるかもわからない。
原種は輸出或いは持っていかれたけど、鑑賞する美意識は輸入禁止に引っかかり、明治にならないとその美しさは発見されなかった。

万葉集には防人として上総の国から九州の地に行く兵士が別れを詠ったものがある。
この詩には、現存する文献で最初にバラが記述されているので知られているものだ。

「道の辺の 刺(うまら)の末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を 離(はか)れか行かむ」

“道端に咲いているバラの先にはいまつわっている豆、それではないがまといつく貴女と別れていかなければならないのだろうか”
刺=(うまら、うばら)がバラを指すようだが、この万葉のピュアーなバラに擬せる感覚がどこかで消えてしまったようだ。

バラを愛した詩人北原白秋(1885-1942)『薔薇二曲』という詩がある。

薔薇ノ木ニ
    薔薇ノ花サク。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。

    二
    薔薇ノ花。
    ナニゴトノ不思議ナケレド。
 
    照リ極マレバ木ヨリコボルル。
    光リコボルル。

このおおらかでのびのびした詩は、万葉のこころを取り戻した詩のようでもあり、万物流転の一瞬を切り取ったストップモーションのような緊張感もある。
また、江戸が東京になって生まれた詩でもあり、バラの美しさが再発見された詩でもある。

(オールド・ローズの系譜=完=)
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その12 フェルメールが認めた「カレル・ファブリティウス」

2008-12-10 09:10:22 | フェルメール

フェルメールに影響を与えた画家、カレル・ファブリティウス

上野の東京都美術館で開催されている『フェルメール展』
フェルメール以外で気になる絵が二点あった。
カレル・ファブリティウスの『自画像』がその一つだ。

この展覧会は、フェルメールを含めてオランダ、特にデルフトで活躍した画家の
素晴らしい絵が集積している。
特に、17世紀オランダで発展した写実主義アートの流れが一望できたことがうれしかった。
1660年の前後20年の間に描かれた作品ばかりで、わずか30年で写実主義絵画が頂点を迎える。

その中でもやはり抜きんでていた最高傑作がフェルメールであることを実感でき、
12月14日の最終日までにもう一度見て、フェルメールをまぶたなのか心なのかどこかに焼き付けておこう!
(それからず~っと気になっていたブリューゲルに戻ってみようかなと思っている。)

フェルメールに関しては最後に残しておいて、気になる絵その1を書きとめておこう。

カレル・ファブリティウス『自画像』(作:1647-1648年頃)


(出典)Web Gallery of Art,(画面下部の“F”をクリックし、“Fabritius, Carel”を選択)

この絵は、じっと引き込まれるものがある。
これを写実的というのだろうか? と問いを発したくなる。
鏡に映った自分、その内面を切り出して描いたような印象がする。
“写実”というよりも“写心”といいたい絵のようだ。

ファブリティウス(Fabritius, Carel 1622-1654)は、32歳の若さで亡くなったが、
1640年代半ば頃はレンブラントの才能豊かな弟子だった。
レンブラントの元を離れ、1650年にはデルフトに住みつき作品は少ないが独特の絵を描いている。

展覧会では『歩哨』『楽器商のいるデルフトの眺望』など5点が展示されていたが、
写実の中に物語を埋め込むような感じがあり、レンブラント+デルフトという
他のデルフトの画家にはない独特な画風のように受けとった。
大胆な筆づかいと強い明暗がレンブラントの特色といわれるが、
それに緻密な観察眼による写実性が溶け込んでいるとでも言ったらよいのだろうか?

さらに付け加えると、フェルメールが尊敬した10才年長の先人のようであり、
フェルメールは、画商としてなのかよくわからないが、ファブリティウスの絵を三点ほど所有したようだ。

フェルメールの絵も写実的ではあるが写実的でないと感じる。
ファブリティウスは、 “写心” というコンセプトをフェルメールに残して早世したのだろうか?

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バラの野生種:オールドローズの系譜⑧ 日本からのバラ

2008-12-09 10:18:59 | バラ

モダンローズの親となった日本のバラ
400万年前の鮮新世期のノイバラの化石が兵庫県明石で出土し、
日本でも、バラの野生種が人類よりも早くから自生していたという。

日本には14種の野生種があり、ノイバラRose multiflora Thunberg、テリハノイバラR.wichuraiana、ヤマイバラ、タカネイバラ、サンショウバラR.hirtula Nakai、ナニワイバラR.laevigata、ハマナスR.rugosa Thunbergなどがある。

このうち、ノイバラ、テリハノイバラ、ハマナスの3種がヨーロッパに渡り、現代のバラの親として品種改良に使われた。

そのヨーロッパへの伝播についてみると、伝播の時期・ルートなど不明なことが多い。このようなことを前提として、
最も早くヨーロッパに入ったのはハマナスのようで、日本に来たリンネの弟子にあたるツンベルグがヨーロッパに存在を紹介したのは1784年で彼の著書『フローラ・ヤポニカ』で、“ローサ・ルゴサ(Rosa.rugosa)”と命名された。

このハマナスは、1796年にはロンドンの「リー&ケネディ商会」で栽培されており、何処から入ったかは不明だ。
「リー&ケネディ商会」は、この当時のヨーロッパ育種業界No1の企業であり、海外からの仕入ルートがあった。仕入れルートは秘密で明らかにならないが、中国か日本に滞在している外交官或いは植物学者或いはマッソンのようなどこかのお抱えプラントハンターから内密で手に入れたのだろう。

しかし、同時期に中国から四季咲きのコウシンバラがヨーロッパに入り、注目がこちらに移った影響なのか、「リー&ケネディ商会」のハマナスはここで立ち消えになる。
ヨーロッパへの再登場は1845年で、シーボルトが日本から輸入して販売カタログに掲載している。

さらにしかしだが、ジョゼフィーヌのマルメゾン庭園にはハマナスがあった。これはルドゥーテの『バラ図譜』5番目の絵として確認できるので間違いはないだろう。『バラ図譜』(1817-1824)の出版時期と兼ねあわせると、シーボルトが輸入した物ではないことは間違いない。

このハマナスは、日本での原産地が寒冷地であるため、耐寒性が強く寒冷地でのハイブリッド・ローズの品質改良に生かされることとなる。

ノイバラ、テリハノイバラに関しては、カタログを参照していただきたいが、ワンポイントコメントすると、

ノイバラがヨーロッパに伝わるのは、1810年でフランスに紹介される。これが、ポリアンサ・ローズの親の一つとなり、フロリバンダ・ローズや現代のミニチュア・ローズを生んでいく。
ポリアンサ・ローズ、フロリバンダ・ローズなどに関しては、プレモダン・ローズで書く予定。

テリハノイバラは、1891年にフランス・アメリカに導入され、品種改良の基本種として利用される。また、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。

ハマナス
Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ

※ビジュアルは、Rosa Rugosa Kamtchatica( Kamchatka Rose)

・和名:ハマナス
・学名:Rosa.rugosa Thunberg ローサ・ルゴサ
・英名:英名:Japanese Rose
・日本原産で、花色は深い紅紫色で雄しべの黄色が目立つ美しい花。花径6-10cm、強い芳香がある。
・太平洋側は茨城県以北、日本海側は鳥取県以北の海岸線の砂地に自生する。
・種小名のルゴサは、しわのある葉を持ったバラという意味。
・耐寒性が強く、この特質を現代のバラに取り込み寒冷地でも栽培できるバラが誕生する。
・1845年にシーボルトがヨーロッパに輸入したのは間違いないが、これ以前にイギリスに入る。
(参考サイト) 「あんたがたルゴサ」

ノイバラ
Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ

※ビジュアルは、Rosa Multiflora Platyphylla(Seven Sisters Rose)

・和名:ノイバラ
・学名:Rosa mulltiflora Thunberg ロサ・ムルティフローラ
・英名Mulltiflora Japonica 
・花は白色、
・花径2.5-3cm、花弁数5枚、
・花期は5-6月、円錐花序で多数の花をつける。房咲き性は、ノイバラが現代のバラに伝えた特質。
・香りよい。
・耐寒性、耐暑性、耐乾性、耐湿性、耐病性が強いため、改良品種の基本種となる。
・ポリアンサ系、フロリバンダ系の親となる。
・1810年ヨーロッパに伝わる。
※ルドゥーテの『バラ図譜』ではノイバラ2品種が掲載されているが、花の色が白ではなく品種改良されたものがマルメゾン庭園に存在していた。ということは、1810年以前にヨーロッパに伝わっていた可能性がある。
実際のノイバラ :(参照:リンク:ボタニックガーデン)

テリハノイバラ
Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ

※写真の出典:『身近な植物と菌類』http://grasses.partials.net/

・和名:テリハノイバラ
・学名:Rosa wichuraiana Crepin ロサ・ウィクライアーナ
・英名:Memorial Roseメモリアルローズ
・日本原産で海岸や明るい山の斜面に自生する。
・葉が照り輝くことから名前がつく。別名ハマイバラ、ハイイバラ
・花は純白で、花径3-4cm、花弁数は5枚。花弁の先はへこみ、倒卵型で平開する
・雄しべは黄色で数が多い。
・甘い香りがする。
・花は円錐花序で10数個つく。
・茎は地をはって伸び鉤状の刺がある。
・1891年フランス・アメリカに導入され、改良されて現在の観賞用つるバラの基礎を作る。
・ランブラー・ローズの系統をつくる。

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バラの野生種:オールドローズの系譜⑦ 中国からのバラ

2008-12-08 09:09:41 | バラ
中国から入ってきたバラ
中国のバラの歴史は古く、周の時代(BC1066-BC256)に、
しょうび(穪靡)きんとう(釁冬)などの文字が見られる。
これは、バラに当てられた最初の文字という。
そのためでもあるが、文字変換は探すので大変目を酷使した。また、有意性の漢字は教養というハードルがあるのでこれは頭を空回りさせられた。

中国原産のバラがヨーロッパにもたらされたのは、大航海時代以降の1500年代の中頃からといわれる。オランダ、イギリスに入りそれからフランス(マリーアントワネットの庭園、ジョゼフィーヌの庭園など)に渡った。

ヨーロッパでの品種改良で重要な役割を果した主要なバラの道筋をたどってみると次のようになる。(年号など諸説あるので併記した。)

1.コウシンバラの命名
英名:クリムゾン・チャイナ(Crimson China)
中国名:月季花
学名:Rosa chinensis Jacquin(1768) ロサ・キネンシス
1733年、オランダ・ライデン植物園の植物収集家が中国の四川州(あるいは雲南州)で濃紅色のバラを発見し、本国に持ち帰り植物園の園長であるニコラス・ジャカン(Nicolaus Joseph von Jacquin)に同定を依頼した。ジャカンはこれを“中国の原種のバラ”であるとして、Rosa chinensis Jacquin と命名した。
当初は花色から「クリムゾン・チャイナ」と呼ばれた。
命名者ジャカンは、オランダ生まれでオーストリアに移住した植物学者。リンネと仲良しで、オキザリス・パーシーカラーにて紹介した。

2.1759年コウシンバラヨーロッパに入る
英名:ピンク・チャイナ
学名:Rosa indica.Linnaeus  ロサ・インディカ
1759年、リンネの弟子ペーター・オスベック(Peter Osbeck) が広東の税関の庭で発見し中国から持ち帰ったバラ。花色から「ピンク・チャイナ」と呼ばれた。
リンネは「クリムソン・チャイナ」とは別種と考え Rosa indica の学名を与えたが、現在では ジャカンが命名したR. chinensis と同種と考えられている。


中国原産の四季咲き性のバラがヨーロッパに入ってきたのは、1789年(1792年という説もある)で、引き続いて重要な3品種も入ってくる。

3.1789年、赤いバラの基本種が入る英名:スレイターズ・クリムゾン・チャイナ(Slater's Crimson China)
学名:Rosa chinensis 'Semperflorens') 1789(1792)
1789年ヨーロッパに紅色花で四季咲き性のコウシンバラが入る。この品種は、古い時代に中国にて育種されたものとみなされている。
伝来のルートは、インド・カルカッタにあった東インド会社の庭からイングランドのノット・ガーデンで庭園師をしていたギルバート・スレイター(Gilbert Slater)の元へ持ち込まれた。
スレイターは、2年目に深紅色の花を咲かせることに成功し、1792年(一説には1789年)に公表した。このバラは、彼の名を採りスレイターズ・クリムゾン・チャイナと呼ばれる。
この品種が入るまでのヨーロッパでは、ガリカなどの赤いバラは、ディープ・ピンクあるいはバイオレットの入った色合いだったが、この品種を交配親として鮮やかな赤の品種が出現することになる。
日本では東インド会社のあったカルカッタが所在する地方名にちなみベンガル・ローズと呼ばれる。
(画像リンク) Slater's Crimson China
http://www.rdrop.com/~paul/chinas/slaters.html

4.1793年、新しいタイプのバラを生み出す交配親が入る
英名:パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)
中国名:桃色香月季
学名:Rosa chinensis 'Old Blash') 1789/(1793)
1793年(一説には1789年)、王立協会会長のジョセフ・バンクス卿が紹介したバラだが、イングランドのパーソン(Parsons)の庭にあったチャイナ・ローズで、伝来のルートはよくわからない。
パーソンは、ピンク色で香りのあるバラを4年間かけて開花させ、バラ愛好家に広めた功績を称えられパーソンズ・ピンク・チャイナと呼ばれるようになる。後にはオールド・ブラッシュとも呼ばれる。
この品種は後日、米国に渡ってノワゼット種を生み出し、フランス・リヨンでポリアンサを、さらに仏領ブルボン島で、ブルボンを生み出す交配親となる。
(画像リンク) Parsons' Pink China
http://www.rdrop.com/~paul/chinas/oldblush.html

5.1809年、ハイブリッド・ティーの親となるロサ・オドラータがイギリスに導入
英名:ヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナ(Hume's Blush Tea-scented China)
中国名:赤色香月季
学名:Rosa × odrata) 1810
1809年にイングランドのヒューム卿(Sir Hume, A. Bart)により紹介されたバラで、中国原種のコウシンバラとロサ・ギガンテア(Rosa gigantea)との交配により生み出された自然交雑種だと見なされている。
淡いピンク色の花、紅茶のような特徴的な香り、大株となるつる性の木立から、ヒューム卿の名を採りヒュームズ・ブラッシュ・ティ・センティド・チャイナと呼ばれる。
この品種は、後にノワゼット、ブルボンなど、他の品種群との交配により、ティー・ローズの源流となり、さらに、ハイブリッド・パーペチュアルを経て、ハイブリッド・ティーへと発展する。
(画像リンク) Hume's Blush Tea-scented Chinahttp://www.rose-roses.com/rosepages/ogrs/RosaXOdorata.html

6.1824年、イエローローズの基本種が入る
英名:パークス・イエロー・ティ・センティド・チャイナ(Parks' Yellow Tea-scented China)
中国名:黄色香月季
学名:Rosa × odorata ochroleuca(1824)
イギリス王立園芸協会のパークス(John Damper Parks)は中国の広東省の育苗商からヒュームのバラと同じ系統で花色が黄色のバラを入手しロンドン園芸協会に送った。 
この大輪で、芳香のある黄色のバラは後にパークス・イエロー・ティ・センティド・ャイナと呼ばれるようになった。 1825年にはパリに送られるなどし、その後のハイブリッド・ティの作出に多大な貢献をすることとなった。
特に、ペルシャン・イエローからのイエローの花色を取り入れるまでの間、イエロー・ローズの元となった品種です。
(画像リンク) Parks' Yellow Tea-scented China
http://www.ausgarden.com/parks-yellow-tea

ジョゼフィーヌが世界の植物を仕入れたのは、18世紀ヨーロッパNo1の栽培業者『リー&ケネディ商会』からであり、これはジョゼフィーヌのシリーズで紹介したが、プラントハンター・育種園が世界の植物を収集・育成し園芸が広まっていく時期に、中国の原種が“四季咲き性”“花の色(紅赤・黄色)”“香り(ティー)”という特徴を持って入ってきた。
日本の原種が入ってきて現在のバラの親たちが出揃うことになる。
中国、日本ともバラは重視されなかった。キクが珍重されたからというのも一因あるだろうが、棘だけでなく香りにも要因があったのだろうか?

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ディスコロールセージ(Andean silver-leaf sage)の花

2008-12-07 09:50:22 | セージ&サルビア
(写真)ディスコロールセージの花


黒とも思えるダークグレイの花、つや消しの薄い緑の葉、
茎と葉の裏側はシルバー色で、
シックとでもいっても良さそうな落ち着いたカラーバランスだ。

ペルーのアンデス山中に自生し、
英名では、アンデスのシルバー色をした葉を持つセージと呼ばれる。

耐寒性は弱いが、日当たりが良い軒下に置いておくと、12月から1月まで咲き、
一休みして晩夏にも咲く。
植物カタログでは、晩夏から晩秋の花と紹介されているが、
冬の花といった咲き方をする。

(写真)直立しないディスコロールの葉と茎


ディスコロールセージ(Salvia discolor)
・シソ科アキギリ属の耐寒性がない多年草。
・学名 サルビア・ディスコロール(Salvia discolor)、英名 アンディアン・シルバーリーフ・セージ(Andean silver-leaf sage)、ベルビアンセージ。
・原産地はペルー。
・耐寒性が弱いので、霜の降りる場所では越冬できない。軒下、又は室内で管理。
・陽に当てれば冬でも開花。
・対暑性は比較的強い。
・草丈は30cm程度だが、つるのように横に広がるのでヒモなどでとめる。
・葉は、薄い鮮やかな緑だが裏側が灰白色。茎は粘着質。
・開花期は、夏場から晩秋だが、日当たりがよいと冬場でも咲く。
・花の色は、黒色に近いダークグレイ。淡い灰緑色の顎と対照的。
・増やす時は、さし芽で増やす。
・花後に思いっきり剪定しても大丈夫。

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