鉄道模型のある生活ブログ

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私のラジエーションハウス(昔話) その1 はじめに

2025年02月22日 | 科学、生物、医学

テレビで「おむすび」をやっています。 やっと管理栄養士らしい話になって病院の話になって来ました。 でも、管理栄養士の仕事はそんなものではないなどいろいろ意見も出て居ますが、NSTというチームを作って患者さんのために働いています。 このチームは管理栄養士、薬剤師、言語聴覚士達がいて、病院は医師と看護師だけのように思われていることに対していろいろな職種の人が医療を行っているのだと言うことがわかったと思います。

私は、診療放射線技師として病院で働いて来ました。 

テレビの「ラジエーションハウス」が放射線技師が主役で現在再放送がされています。

ラジエーションハウスはもともと漫画だったのですが、テレビ化されて、窪田正孝さんが医師の免許も持つ放射線技師として、スーパーマンの様な活躍をしています。

「おむすび」も「ラジエーションハウス」も、病院に勤めていたものにとっては、そんなことありえない、とか、1人の患者にずっと付き合えるような、そんなに暇じゃない、などなど現実と違う場面が多々ありますが、他のドラマでもそうですが、現実のことだけを描いたら、面白くない、ドラマにならないので大袈裟に書くのは仕方がないでしょう。

ただラジエーションハウスで良かったことは、数年前の放送の後、放射線技師になりたいという若者が増えたことです。

なお、ラジエーションハウスとはこの漫画で初めて知った言葉で、放射線科の意味でしょうが、

普通は Department of Radiorogy と言います。

ここでは、診療放射線技師としてやって来た仕事とか書きたいのですが、就職したのは昭和42年(1967年)です。

戦後のどさくさは通り越していましたが、世情は今とは大幅に違う。

たとえば、列車の中には灰皿があって、車内でタバコを吸うのは当たり前。 テレビでもおっぱいまではOK、もちろんスマホなどなく今の様に色々な情報は新聞か週刊誌、それにテレビでしかみられないので、検索してなんでもわかるのとは大違いでした。

ということで、病院関係の話ですが、その当時の話を入れて書くと面白いかなと思って、シリーズものとして書こうと思っています。

 

江若鉄道、 現役でこんな車両が走っていた頃です。 日の丸は多分正月です。

 

⭐️ エックス線技師学校

 何故エックス線技師になったのか? 当時は診療放射線技師ではなくて診療エックス線技師でした。

 国立のエックス線技師学校があって、2年制の専門学校であるけれど授業料がいらない。 大学附属の学校であるのでなんとなく大学の様な感じの名前で、レントゲンなら写真を撮るのであろうから、カメラ付きだった私は病院で働くことになるとは全く考えずに受験することにしました。

その学校の名前が長くて **大学医学部附属診療エックス線技師学校  と欄の中に入りきらないほどでした。

ここを受けたいと高校の担任に言うと。物理や数学があるんだろう? お前はその辺りの出来が良くないので無理だと言われました。 でも、国語や社会はもっと出来が悪いと私が言って、じゃあ受けろと許可をいただきました。

定員は30名で、受験に行くと20名ほどしか受けていない、これは受かる! と思ったのですが、試験官の先生が「ここは国立の学校なので、学生数が少なくても我々の給料は変わらない。 だから出来の悪いやつは落とす!」 と」言うではありませんか。 もう60年ほど前のことなのですが、はっきり覚えています。 結果としてこの先生、U先生と言いますが、鬼のUと言われることや、卒業後も先生が亡くなるまで、お付き合いさせていただくことになったのです。

入学式には親父がついてきました。 大学附属ですから大学の先生がたくさんいます。その時来賓の中に、鉄腕アトムのお茶の水博士とそっくりの髪型、頭、顔立ち、鼻こそ大きくありませんが、まるでお茶の水博士に見える人がいて、親父はやっぱり大学の先生にはこんな人がいるんだと感心していました。

入学したのは14名、上から落ちてきた留年生が2名の16名のクラスでした。

これが私の性格を変えることになったのです。 高校までは50名ほどのクラスだったのが、たったの16名、ですから、影に隠れているわけにはゆかなくて、色々な事をやってゆかなければならない、引っ込み思案の私の性格が徐々に人前に出なければならないことに慣れてきたのでした。

学生服を着て校門の前で、若かった。 U先生から絶対に学生服を着ろと厳しい指導があった。

 

さて、エックス線技師の養成について話をすると、日本で初めにエックス線装置を作ったのは、京都の島津製作所です(1909年)。 レントゲン博士がエックス線を発見したのが1895年ですから、あまり経っていません。

そこで、島津ではエックス線技師の学校も作りました。 そこが日本初めてのエックス線技師学校で、正式な名前は忘れましたが私たちは島津と呼んでいました。 現在の京都医療科学大学です。

 

島津製作所 創業記念資料館  京都 木屋町二条

 

中には、初期のX線装置も置いてあります。 もちろんノーベル賞の田中耕一さんの資料もあります。 できたら見に行ってください。 面白いものがたくさんあります。 今は予約制かもしれません。

 

一方、私の学校は国立では初めてのエックス線技師学校で、私で13期生でかなり歴史がありました。

先輩は大学病院はもちろん、国立がんセンターやガン研、千葉の放射線医学研究所など、さらに民間の放射線機器の会社など色々なところに就職していました。 こんなことは入学前には知りませんでしたが、免許職である事もあり就職率は100%と非常に高い。

 

京都大学の原子炉です。 大阪府熊取にあります。 先輩がここで働いていたので見学です。

建屋の写真ではありません。 原子炉本体です。 この蓋を開けて上から炉心も覗きました。 絶対に物を落とすなと言われて覗き込むと、水が張ったプールの様で、下で紫の光が光っていました。 チェレンコフ現象です。

 

つづく

 

 

 

 


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