ゴルフタイムスの世界   Eagle Eye

ゴルフタイムス編集の古賀のイーグルアイは、焦点を外さないのが自慢です。面白くて、実践的で参考になる記事を提供したい。

59回 中日クラウンズ 1,2,3位 外国勢

2018-04-30 | 危うい日本のゴルフの世界

59回 中日クラウンズ 終了

 Y.E.Yang の実力の

     8年ぶりの美酒(46歳)

日本では、34歳の優勝以来、12年目の勝利

タイガーを破りアジアから初めてメジャーの金的を射止めたのは、彼である。

今の日本の実力は、こんなもので、ツアー活性化、遼が奮闘しても、盛り上がりを欠ける。3位まで外国勢の追い上げで決まった。情けない日本の攻略の力、これでは、ギャラリーは遠のく。アジア最高の試合で、こんなはずじゃなかったと臍を噛むのは、記者だけだろうか。遼は、三役をこなしてアップダウンの激しいゲームを展開した。6500ヤードを攻められない悔しさは、日本ゴルファーにスターが存在しない事実を暴露した。

Pos 選手名 Sco
優勝 Y・E・ヤン   -12
2 ハン・ジュンゴン   -8
  A・クウェイル   -8
4 秋吉翔太   -7
  上井 邦裕   -7
6 大堀裕次郎   -6
  M・グリフィン   -6
  今平周吾   -6
  P・マークセン   -6
10 大槻智春   -5

小平智は、アメリカ参戦にフォーカスを定めて、ザ。プレヤーズ選手権から足を置く。

まず、予選突破が必要だ。
遼は、始まったばかりであるから、落ち着いたゲーム運びを目指した方がいい。ゴルフは、試行錯誤で迷道もある。しかし、まだまだ先がある。どん欲にゆっくりいかないか。また、遼で5年、食うんですか。と日本ツアーと組織に暗雲が漂うが、スターがいないツアーが熱を帯びる傾向にはならない。遼が、アメリカで成功して、日本回帰だと筋道が通るツアーの世界であるのでは、という巷の批評はある。しかし、遼は、アメリカをあきらめているわけではないのだ。ツアーの成績次第では、世界のツアーが眼前に迫ってくるのは、周知であろう。遼に期待するのは、まずツアーをまとめることだ。

今、日本ツアーは、マイナーにある。興業が成立しないのだ。大改革を実行する勇気ある人材が必要なのだ。GDBでは、ツアーをもに行きますか、という全国アンケートで、応えが、否定的過ぎて、このコラムにはしない。つまり、危機的状況出る事実だけは伝えておきたい。次は、房総で日本プロ選手権だ。ぜひ、成功させたいものだ。

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59回 中日クラウンズ開始である。遼と小平の試練の舞台

2018-04-25 | 危うい日本のゴルフの世界

中日クラウンズ開始である。59回

遼のゴルフ、智のゴルフに注目が集まる!!!

アジアきってのメジャーと位置付けてもいいほどの歴史を刻んできた試合である。8年前、12バーデイを奪って58ストロークで逆転劇を演じた遼、世界に衝撃を与えた。遼は、鳴り物入りでUSツアーの参戦、成果こそ芳しくはなかったが、収穫はあったはず、シード権喪失で日本ツアーに専念を宣言、三役をこなしかつゴルフファンが戻ってくるように遼の重責はひしひしと感じる。遼が、ファンを虜にして来たの周知の事実だ。遼には、フィールドに入るファンが最低1000人を超える。4日間で4000人を超えるに数字が物語る。それに遼のゴルフを見ようと集まるのが、4日間で1万人はいる。なぜ、遼のゴルフは、魅力があるのか、それは、攻撃的なパーマー的ゴルフの真髄を行くからだと記者は考えている。加えて小平がRBC Heritage  Championshipでキムシューをプレーオフで破り、シンデレラボーイになりつつある。19,20年のシード権をゲット、QTを通らづ、表舞台に立てるチャンスをものにした。智の人気はこれからだといえる。だから、帰国第一試合、中日クラウンは、智の試練のフィールドとなり、無様なゴルフはできない。つまり、USツアー選手の実力を発揮しないと、巷の評価は厳しくなる。

英樹のUSツアーは、智のUSツアーと同格になる日が近い。遼がアメリカから舞台を日本に移したのは、日本ツアーの危機を救済する第一歩となる可能性が大である。遼にすがった遼の16歳から21歳までの5年間、ゴルフ界は生き延びた。その付けが大きくUSツアー参戦に遅れた理由と記者は考える。遼と智を考えると、智の方が年齢も上である。29歳になる。USツアーの前線のトップは智の年齢である。智が10年戦うと40歳になる。何勝できるか、それとも朽ちるか、神のみぞ知る領域である。

遼ほどの実力を持っているに日本ツアープロを今、探すのに一苦労する。遼をしのぐ選手が、少なくとも10人は必要である。活性化とは、ゴルフスターを誕生させるのが、一番速道である。今平周吾にも期待は大きい。アジア最大の試合といえる和合の試合、世界が注目をする。それほど、インパクトにあるビッグゲームなのだ。

遼のゴルフ、智のゴルフ、周吾のゴルフ、などなど眼は開いたままである。

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石川遼のゴルフ 第二章と日本のゴルフ

2018-04-23 | 危うい日本のゴルフの世界

石川遼の第2章に入る。USツアーと石川遼を249回の連載で執筆してきたが、遼が帰還し、日本のゴルフに没頭し始めた、明らかに、成長と見解を持つ遼が、ツアーの選手会長として、活躍が期待されるわけだ。小平智ののように、USツアーのQTを受けなくても、日本のランクで海外に出て、優勝すると、2年間のシード選手として活躍できるので、遼さえその気があれば、また、マスターズへ出るチャンスは当然ある。小平は、シンデレラボーイといわれるのは、そういうわけである。小平は、すでに29歳に達しており、ヤングというよりは、ベテランの部類に属してると記者は、理解してる。

遼は、大ベテランになっている選手であるから、不況に滅入っている日本ツアーに喝を入れるつもりで、青木も納得したのだろう。遼のゴルフは、どんな選手よりも一歩抜けた技術をすでに引き出しにしまっているので、おいおい、そのパーフォーマンスを見せることになろう。遼には、動かぬファンがしっかりある選手で、連日のゴルフで、5000人も増えてトーナメントを盛り上げているの現実で証拠である。

つまり、日本男子ツアーは、一試合、5000人のギャラリーが増えているのは、遼のゴルフが生きて魅力があるからだ。選手会長、ツアー副会長、現役選手と3役をこなす遼にツアーの責任が重くのしかかる。なんでもこなせる才能があるので、逆にそれが怖い場合もある。TV 報道は、見てくれて、いくらの世界だから、なおさらのことだ。何万のファンが増えたのは、言い過ぎではない。遼はそれだけの選手だという証明だ。

池田や宮里が選手会長で賞金王になったり、トップになったり兼用選手の活躍が堅調であるから、遼の活躍が、今のツアーを盛り立てれば、いい影響がフィールドに充満するに違いない。現在の二試合後の結果を見ても、優勝戦線に顔をだして、各media も歓迎意向を示してまず第一歩は成功と言っていいのではないか。いぶかるMedia ゴルフ担当もいるが、反論は今のところ、出ていない。

遼の第2章は、国内ツアーが主戦としての報道である。どうか、Media は、辛抱強く遼とツアーを応援してもらいたい。

我。夢にあり。今,過程なり と遼の思いではないだろうか。

すばらしい舞台ができても、いい役者がいなければ、話題すら起きてこない。

                   執筆同人       古賀剛大

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82 Masters の余韻と日本選手の考え方

2018-04-21 | 危うい日本のゴルフの世界

余韻は、生き物。マスターズの風

82 Mastersは、パトリックリードの強さが際立ったゲーム運びで、リッキーファーラ―やジョーダンスピースの猛追をしのいで、優勝したのは、前号で書いた。

記者は、翌日、霧雨の中、10時40分マグノリアレーンを徐行し、クラブハウスへついた。出迎えのスタッフが、バレーパーキングの世話をしてくれて、クラブハウスに入るとロッカー係りが、Good Morning と挨拶をし、ベンホーガンのロッカーを貸してくれた。ベンが使ったロッカーとなると、感激以外の何物でもない。クラブハウスの前から、練習レンジへカートで運んでくれて、あの広々とした練習場に顔をだして、タイトリースとの新ボールを打ち始めた。まずは、50ヤード、100ヤードを入念にこなし、アイアン、ドラヴァ―に移った。貸しクラブでもよかったのだが、ナショナルには、ないので、前日、街のゴルフショップで一番安いフルセットを仕方なく買い求めた。13本だったので、56度のタイトリースと付け加えた。これは、中古品で6000円で手に入れた。

意外と、この56度が、フィールドで活躍するのだ。寄せワンに欠かせない逸品である。

スタートは、デイレクターほか、プロもいてくれて、ペアリングは、アトランタ屋その他の地方のプレヤーと写真のような顔触れだった。3人とも、270ヤード前後のショットを常にする若者で、自分を70ヤードから離して満足げに見えたが、3オンを確実にする戦法で、ドラヴァ―は、フェアウエイの真ん中、外さず、パーが5つつも取れたのは、ラッキーであった。プレーをするというよりは、ベンホーガンブリッジやクリークの流れ、裏まで見えるグリーン奥のたたずまいを見ることで、精神的安定を用意した。5万を超える観衆が去った戦場、誰もいない環境のそのギャップが、激しく呑み込むのに、別世界の気分だ。速いグリーンは、もちろん知っているから、友達に借りた値段がつかないほど高いEVNROLLのパターが、面白いほど適していて、入ることに戸惑いを感じるくらいの出来栄えであった。重さが十分なパターは、高速にはもってこいだ。ラインだしが、力が要らなくて、静かに気持ちよくグリーンを噛んで転がる。自分は、パットは下手な上ではないので、グリーンの速さだけ読めれば、神がかりのパッテイングができるのだ。そろそろ、大学で、パター論を書いた本を推敲しようかと思っているくらい厚かましい男なのだ。日本の片隅から来たgolfフェローをオーガスタのグリーンは、気持ちよく受け入れてくれたことに感謝する。ボビージョーンズやクリホードやマッケンジーに心から感謝しながらのプレーである。プレーは、OUTからインむかう。テイ―グランドは、一番前とはいっても、長い。実に長く感じる。

12番では、見事なパットで、パーをとる。16番も長いパットを沈めて、パーをとる。18番は、三打目でのせて、2パットだ。気分が乗るときは、リズムもしっかりしていて、ワンラウンドが、つつがなく終了である。永遠なれ!!!マスターズ。感謝あるのみ。

世界の一流コースを回ると、すこぶる余韻が脳裏から長い時間、離れない。

パインヴァレーやウイングフッド、ベイヒル、ミュアフィールドヴィレジ、ピーチツリー、サイプレスポイント、などなど余韻は、生命を持った不思議な生き物でもある。

特に、オーガスタナショナルは、激しい戦を38年以上も見てくると、余韻は、自分の脈と同調して刻々と体中に覆いかぶさっていきつづけているのだ。

タイガーの復活、マクロイのカムバック、ババワトソンの剛力、スピースら若者の躍進、ジャックやゲイリーのパーフォーマンス、パー3コンテストの魅力などなどマスターズは、メジャーでも特別なのだ。

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正しい歴史認識 31  南京事件 日本人48名の証言

2018-04-17 | 日本時事新聞社

『「南京事件」―日本人48人の証言』

小学館文庫)

阿羅健一著

その9―第章 画家・写真家の見た南京 

海軍従軍絵画通信員・住谷磐根氏の証言

外務省情報部特派カメラマン・渡辺義雄氏の証言

陸軍報道班員・小柳次一氏の証言

セントジョセフ国際大学

国際社会工学部 主任教授

古賀剛大 様

 

 今回は第3章「画家・写真家の見た南京」です。

 

 住谷磐根画伯は22歳で二科展に入選した著名な画家です。海軍が従軍画家を求めているということで志願したのですが、なかなか認めてもらえず、米内海軍大臣に手紙を書いたり、軍務局の課長に直談判したりしてようやく採用してもらったということです。

 住谷画伯が見た中国兵の処刑は下関埠頭で行われていたもので、これはおそらく、第7連隊が安全区の掃討戦で捕獲した不法戦闘員(軍服を脱ぎ捨て、武器を隠し持っていた等)6500を厳重処分したものでしょう。城内では中国人は全然見かけなかったが、『避難民区域』という表示のある所に行ったら、市民がたくさんいたと言います。虐殺というのは一度も見ていないと言います。

 支那事変が始まると中国は反日をあおり、中国に同情を引くような写真を世界に流し、これが成功していました。そこで外務省情報部では、支那事変の実態を外国に知ってもらう必要に迫られ、写真とニュース・フィルムの撮影隊を組織しました。このカメラマンとして選ばれたのが、新進カメラマンとして名を成していた渡辺義雄氏でした。

 渡辺氏は例の「ライフ」に載った、上海の停車場で泣いている中国の赤ん坊の写真が、中国に同情する世論形成に大きな役割を果たしたことを指摘します。しかも、全くのやらせ写真だったわけです。渡辺氏も南京で虐殺行為など見ていないといっています。難民区で日本軍が住民にコメを配給したり、慰問袋を手渡したりしていたので、その写真を撮ったと言います。

 小柳次一氏は海外への日本紹介誌『NIPPON』を発行していた名取洋之助の日本工房で働いていました。名取氏とともに陸軍に宣伝戦の重要性を説得し、上海派遣軍の宣伝担当の金子俊治少佐の理解を得ました。中国で撮った写真を名取の名前で世界の写真雑誌、新聞社、出版社に売り込みました。小柳氏自身の名前でも売り込むようになり、南京でスパイを処刑した写真は「ライフ」に載ったと言います。

 小柳氏も例の「ライフ」の赤ん坊の写真のことを述べています。戦後その歪曲写真を撮ったカメラマンに朝鮮戦争の時にソウルで会ったので、そのことを言ってやったそうです。小柳氏も南京虐殺など否定しています。「イデオロギーで事実をゆがめ、それがまかり通っている世の中になっています」と嘆いています。

 

  日本語原文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/48-9.pdf

英訳文: http://www.sdh-fact.com/CL/Ara-Nanjing-9-.pdf

 

海外には、下記の通り英文で発信しました。

 

平成30年4月2日「史実を世界に発信する会」会長代行 茂木弘道拝

http://hassin.org

 

The Nanjing Incident: Japanese Eyewitness Accounts

-Testimony from 48 Japanese Who Were There-

By Ara Ken’ichi

No. 9: Chapter 3  Nanjing, as Observed by Artists and Photographers

 

Mr. Sumiya Iwane, Artist and Naval Correspondent

Mr. Watanabe Yoshio, Photographer, Information Bureau of

the Ministry of Foreign Affairs.

Mr. Koyanagi Jiichi, Member of the Army Press Team

 

   We present No. 9 in this series, which contains Chapter 3: Nanjing, as Observed by Artists and Photographers.

   Mr. Sumiya Iwane, a well-known artist, applied for the position of combat artist in the Navy. His application was rejected, so he sent a letter to the Minister of the Navy Yonai Mitsumasa and directly approached the head of the Fourth Department of Military Affairs--he was finally accepted.

   Mr. Sumiya saw executions of Chinese soldiers at Xiaguan Wharf. He may have observed the execution of unlawful Chinese soldiers who had infiltrated the Safety Zone, discarding their military uniform and hiding their weapons. He saw almost no Chinese civilians in Nanjing, at first, but later he saw a sign for the Refugee Zone, where many Chinese civilians had gathered. He never witnessed a “Massacre” of any sort.

   After the outbreak of the China Incident, the Chinese government distributed photos which alleged Japanese brutality, thereby raising sympathy for the Chinese people with great success. So, the Ministry of Foreign Affairs organized a photographic and film team. Mr. Watanabe Yoshio, a rising photographer, was selected to join the team.

   Mr. Watanabe spoke about the impact and effect of the well-known photo of a crying baby which appeared in the American magazine Life. It was an entirely staged photo, though. He never saw a massacre in Nanjing. In the Safety Zone, the Japanese army distributed rice and consolation gifts, of which he took a photo, he says.

   Mr. Koyanagi Jiichi worked with Mr. Natori Yonosuke, who published the English-language photo magazine NIPPON. They spoke to the Army and Navy of the importance of media. Finally, they were able to convince Major Kaneko Toshiharu, in charge of propaganda in the Army’s Special Service Agency in Shanghai, of the importance of media.

   They distributed photos taken in China to photo magazines, newspapers, publishers, and so on overseas under the name “Natori,” who was well-known worldwide. Later, Mr. Koyanagi attached his own name to these photos. His photo of an execution of a Chinese spy in Nanjing was published in Life.

   Mr. Koyanagi also referred to the “crying baby” photo that appeared in Life. During the Korean War, he met the photographer who took this fabrication, in Seoul. He told him that the true story behind it was widely known. Mr. Koyanagi strongly denies that a so-called massacre occurred in Nanjing. He simply states: “Facts are twisted by ideology and twisted facts are accepted today.”    

 

    URL: http://www.sdh-fact.com/book-article/1144/

  PDF: http://www.sdh-fact.com/CL/Ara-Nanjing-9-.pdf

 

Questions are welcome.

 

MOTEKI Hiromichi, Acting Chairman

for KASE Hideaki, Chairman

Society for the Dissemination of Historical Fact

Phone: +81-3-3519-4366

Fax: +81-3-3519-4367

Email moteki@sdh-fact.com

URL http://www.sdh-fact.com

Note: Japanese names are rendered surname first in accordance with Japanese custom.

日本時事新聞社 購読者の方々へ

読者の中から、国際情勢の正しい読み方をぜひ、定期的に講座を開いてもらいたいと申し出が続いてきた。つまり、新聞の表情報ではなく、裏情報を知りたいと懇願されたのは、多くの知識人の同意と解釈したい。海外からの特別記事をぜひ、解読されるように執筆同人に提案しました。ご期待願いたい。  デスク     古賀剛大

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