天津ドーナツ

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ユニクロにおじゃましました

2011-12-09 22:12:06 | 結果報告
天津にあるユニクロに、3人の学生と一緒にお邪魔してきました。
M店長は、第1回PKスピーチコンテストの副賞として、3人分の衣料品をプレゼントしてくれることに
なっていたからです。

約束の時間の5分前になっても姿を見せず、「まだ途中です」という連絡しか
してこない学生達には驚きましたが、M店長が「いいですよ」と言ってくれたので、その場は何とかなりました(あくまでも、「その場は」です)。

さて、M店長がご推薦してくださったのは、「ヒートテック」という新しい素材で作った衣料品でした。何でも、東レという繊維の会社と共同で開発したのですが、失敗につぐ失敗で、5年もかかってしまったそうです。

その話を学生の後ろで聴いていた私は、(日本語教師である私は、五年という時間をかけて、一つのものを作り出したことがあるのかな…)とわが身を振り返ってしまいました。

次の日の授業のための準備に追われ、「5年後にこれだけのことができるようになっていたい」と思うこともなく、「5年かけてこういう教材を作ろう」と思うこともなく過ごしてきた私には、ちょっと耳がいたい話でした。

閑話休題

その後、3人は店内を廻って衣料品を選んでいましたが、その間に、M店長から次のお話を聞かせていただきました。

「ユニクロは、品質には妥協しない」
「その時々の流行は追わない。流行遅れになって、来年には着られないものは作らない」
「他の衣料品と組み合わせて来て貰うために、服の表にはユニクロのロゴマークをつけない」

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他にも、いろいろなお話をしてくださいましたが、それはまた次の機会にご紹介いたします。

スピーチコンテストについて思うこと…日本語技能コンテストは何の役に立つのか

2011-12-09 08:27:25 | 日本語学習法
(以下は、日経ビジネスオンラインの記事からの転載です)

元NHKアナウンサーの山川静夫さんも、話に必要なのはテクニックではない、と語っていた。

 「私もね、若いころはうまくしゃべろうとか、気の利いたことを話そうとか、必死にテクニックに走っていました。でもね、今やっと話に必要なのは、そんなことではなかった、ということに気がついたんです」

 「よく会話は言葉のキャッチボールなんて言うでしょ? キャッチって日本語に訳すと、受け取る、ということですよね。だから人と話す時には勝手に投げるのではなく、相手が受け取ることができるボールを投げないとダメ。自分がカーブを投げたいとか、俺はこんな速い球も投げられるんだ、なんて、どんなに素晴らしい球を投げても、相手が受け取ってくれないと意味がない」

 「分かりやすい言葉で、分かりやすく話すことが一番大切なんです。そのためには、自分の足で歩いて、自分の手で触って、自分でにおいをかいで自分の身体で体験するしかない。体験を通して知ることは、人格を磨いていくことにもつながります。世の中いろんな情報があふれていますけど、自分で体感してほしいと思います。テクニックだのアクセントだの話し方だの、関係ないんです」

(中略)

コミュニケーションに必要なものは、言葉を巧みに使うテクニックじゃない。ナレッジマネジメントの第一人者である米国のコンサルタント、ドン・コーエンも、「知識を伝える際に、理論や図、表などを駆使して立派なプレゼンテーションを行っても伝わらない。伝え手がそれを受け止める人に、何を、どうして、それを伝えたいかを、自らの経験に基づいて話すことが重要である」と常々指摘している。

(転載ここまで)

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私が、ある学生のスピーチを聴いて、「こんなスピーチを練習している時間があったら、今、自分が話していることが本当のことなのか、自分の足を使って確かめたほうがいいんじゃないかな。言葉は綺麗だけれど、心には響かないな」と思うのは、上記のようなことがあるからです。



自分自身を高めずに、また、「これを伝えたいんだ」というものが自分の中にないのに、

心に響く(例えば、この人と一緒に仕事をしたいと思ってもらえる)スピーチなどできるはずがないと思います。



ちなみに、『最高のプレゼンテーション』という本の中で、ダグ・マルーフはこう言っています。



「最高の商品とは、あなた自身です」



もちろん、それは道徳の本を読んで「立派な人間になったつもり」になることでは、ありません。

実際に知らないこと・本当に伝えたいという内的動機のないものを、受け売りの知識やうわべだけ綺麗な言葉、大げさなジェヤスチャーで表現しても、聞いている人には「日本語が上手だな」という印象しか与えないのではないか、ということです。

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日本語の発音が多少おかしくても、立派な仕事をしている人はたくさんいます。

反対に、日本語の発音がきれいでも、会社を転々として、アルバイトしかできない人もいます。



日本語教師としての私は、発音もきちんと教えられるようになりたいと思いますが、

卒業生の現状を見ると、完璧な発音やどうでもいいようなテクニックを競うスピーチコンテストに

多くの時間を費やして参加する学生には、「本当にそれでいいのですか?」と聞いてみたいです。



日本語教育はいったい誰のために・何のためにやっているのか、

それを考えながら、来学期のスピーチコンテストの準備を進めたいと思います。