このところ新聞各紙で、「消えた北朝鮮看板アナウンサー」が、紙面を賑わしている。
朝日新聞の囲み欄を抜粋する。
ーーー「北朝鮮の金正日総書記の動静を “力強い口調”で語る朝鮮中央テレビの看板アナウンサー、リ・チュンヒさんが 10月19日の番組でニュースを伝えたのを最後に 姿を見せていない。ラヂオプレスが伝えた。50日以上に及ぶ不在は異例だ」ーーーという書き出しである。
記事によれば、アナウンサーとしての最高位の「人民放送員」の肩書きを持っている人で、チマ・チョゴリ姿で放送する。
本人の辨によると「金総書記の動静については“格調高く伝え”るように、心がけていたのだという。(12月16日付け朝日。文中、“”は筆者)
たしかに、長い間、私たちには“北朝鮮の声”であり“顔”でもあった訳で、しばらく顔を見せないのは、不思議であるし、どこか寂しい感じさえする。
就中、私たちの記憶に強く残るのは、北朝鮮にとって大切なメッセージを伝えた、あの“力強い口調”であり“格調高く伝えた態度”ではなかろうか。
しかし、私個人にとっては、その“格調の高さ”と“力強い口調”は、戦中の悪夢にダイレクトに繋がっている。
“軍艦マーチ”に乗って伝えられた「大本営発表」・「東部軍管区情報」、“海行かば”をBGMに次々に伝えられる「玉砕」・「特攻隊」の悲報・・・そして「敗戦」。
それは、戦争中、放送で聞かされ続けた、日本のアナウンサーの“口調”そのものであり、“格調の高さ”に生き写しなのだ。
私などは、初めて聞いた時から「ああ、あの調子だ」と身震いをしたものだ。
戦時中、NHKは現在のような法人ではなく、郵政省管轄の放送局であり、アナウンサーは政府の発表文を正確に読むという職業だった。
その頃のアナウンサーの口調のことを、“雄叫び調”というと知ったのは、昭和30年にNHKに入社したときだった。
戦後、ラヂオ時代(敢えてヂを使う)を迎えて、アナウンサーの口調を直すのも、それなりの苦労がいったようで、“話しかけ調”が主流となるまでには、かなりの時間が掛かったらしい。
戦中から戦後にかけての変革の手本は、戦勝国アメリカの放送だったし、放送の内容も全てGHQの監視下に置かれていた。
私が昭和30年(1955)に入局し、鳥取放送局に赴任した頃には、まだ放送部長の席の上に「放送遮断機」が置かれていたのを思い出す。
何の為かを聞いたところ、当時のK部長は「放送中にGHQから命令が来ると、即座に放送を切ったのだよ。ここ暫くは、そんな事態はないがね」と言っていたのを思い出す。無論まだまだラヂオの時代だ。
そして、ラジオからテレビに放送の主流はかわり、「民間放送の出現」なども、今は昔の物語だ。
アナウンサーの仕事も大きく変わったが、その名前だけは「昔の名前で出ています」だ。
だが、もう、“〜調”などという喋り調子で分類されるような職業ではなくなったことは疑いない。 改めて、今の“幸せ”を思わずにはいられない。
でも、この頃ちょっと気に掛かる調子があるんだな・・・
どこの局を問わず、ワイドショウからコマーシャルまで、アナウンサーもタレントさんも、どうしてあんなにも、“叫び・わめく”人が多いのだろうか。我ら聞き手は、狭いリビングで聞いているのにねえ。
ま、この話はまた・・・
朝日新聞の囲み欄を抜粋する。
ーーー「北朝鮮の金正日総書記の動静を “力強い口調”で語る朝鮮中央テレビの看板アナウンサー、リ・チュンヒさんが 10月19日の番組でニュースを伝えたのを最後に 姿を見せていない。ラヂオプレスが伝えた。50日以上に及ぶ不在は異例だ」ーーーという書き出しである。
記事によれば、アナウンサーとしての最高位の「人民放送員」の肩書きを持っている人で、チマ・チョゴリ姿で放送する。
本人の辨によると「金総書記の動静については“格調高く伝え”るように、心がけていたのだという。(12月16日付け朝日。文中、“”は筆者)
たしかに、長い間、私たちには“北朝鮮の声”であり“顔”でもあった訳で、しばらく顔を見せないのは、不思議であるし、どこか寂しい感じさえする。
就中、私たちの記憶に強く残るのは、北朝鮮にとって大切なメッセージを伝えた、あの“力強い口調”であり“格調高く伝えた態度”ではなかろうか。
しかし、私個人にとっては、その“格調の高さ”と“力強い口調”は、戦中の悪夢にダイレクトに繋がっている。
“軍艦マーチ”に乗って伝えられた「大本営発表」・「東部軍管区情報」、“海行かば”をBGMに次々に伝えられる「玉砕」・「特攻隊」の悲報・・・そして「敗戦」。
それは、戦争中、放送で聞かされ続けた、日本のアナウンサーの“口調”そのものであり、“格調の高さ”に生き写しなのだ。
私などは、初めて聞いた時から「ああ、あの調子だ」と身震いをしたものだ。
戦時中、NHKは現在のような法人ではなく、郵政省管轄の放送局であり、アナウンサーは政府の発表文を正確に読むという職業だった。
その頃のアナウンサーの口調のことを、“雄叫び調”というと知ったのは、昭和30年にNHKに入社したときだった。
戦後、ラヂオ時代(敢えてヂを使う)を迎えて、アナウンサーの口調を直すのも、それなりの苦労がいったようで、“話しかけ調”が主流となるまでには、かなりの時間が掛かったらしい。
戦中から戦後にかけての変革の手本は、戦勝国アメリカの放送だったし、放送の内容も全てGHQの監視下に置かれていた。
私が昭和30年(1955)に入局し、鳥取放送局に赴任した頃には、まだ放送部長の席の上に「放送遮断機」が置かれていたのを思い出す。
何の為かを聞いたところ、当時のK部長は「放送中にGHQから命令が来ると、即座に放送を切ったのだよ。ここ暫くは、そんな事態はないがね」と言っていたのを思い出す。無論まだまだラヂオの時代だ。
そして、ラジオからテレビに放送の主流はかわり、「民間放送の出現」なども、今は昔の物語だ。
アナウンサーの仕事も大きく変わったが、その名前だけは「昔の名前で出ています」だ。
だが、もう、“〜調”などという喋り調子で分類されるような職業ではなくなったことは疑いない。 改めて、今の“幸せ”を思わずにはいられない。
でも、この頃ちょっと気に掛かる調子があるんだな・・・
どこの局を問わず、ワイドショウからコマーシャルまで、アナウンサーもタレントさんも、どうしてあんなにも、“叫び・わめく”人が多いのだろうか。我ら聞き手は、狭いリビングで聞いているのにねえ。
ま、この話はまた・・・