病気の母親の子どもというのは、いろんな影響を受けやすい、そのひとつに母親の指摘を受けてしまうということがあります。
私に限った話ではありません。
(入院している場合)何で家にいないの?
何でお母さんは杖をついているの?
何でお母さんが来ないの?
いろんな疑問は、決して悪意があるものばかりではもちろんありません。子どもでなくても知りたいと思うことは往々にしてあるはずです。
私自身、お母さんが病気で、というお子さんから話を聞くときはものすごくドキドキしながら聞きましたし、実際に病気の人だとしても話を聞くことにびくつきながら口火を切ったことは何度もあります。
大人になるとどこまで聞いていいものかわからない、逆に上記のことは聞いてみたいことではありながらも、相手を傷つけてしまうかもしれないことだとわかっているから、大人はなかなかしない質問なのだと思います。
しかし、聞かれる側になってみると、こうしたことを聞かれて嫌だなと思ったことはありません。
悪意をもって指摘されたり、興味の方向が違うところにあるなと思うときはもちろん不快になるのでしょうが、純粋に聞かれることで何か不満に思うことはありませんでした。むしろ嬉しいくらいでした。
子どもの世界でもそうした疑問があるらしくて、娘もそうした質問を何度か受けてきたようです。
ところが、中には残念ながら悪意のあるような、「情けないお母さんだよね」という単なる悪口に近い指摘を受けたこともあるようで、そのときはとても傷ついたということでした。
その内容は実は私に話したことはありませんでした。
やっぱり子どもながらに、私の方が傷つくと思って、隠していたようです。
おしゃべりな娘が、全く理由を全く話さないで、でも悔しそうに、こらえるように泣いていることがありました。おそらくそれらはこうしたことが理由だったのだとピンと気づきました。
ただ、娘はそれを、ただやり過ごしたり我慢したりして消化したのではないらしいのです。それとなく私に、「容姿について聞かれたらどうするか」という話を聞いてきたことがありました。それに対して「聞かれて嫌だと思ったこともないし、でも深く説明を求められているわけでもないから、病気だからと答えるかな」なんて説明をしてきました。
それを娘なりに解釈してうまく立ち回ってきたようです。
悪意があるものでも指摘してくれたということは、「お母さんが病気である」ということをわかってもらえるチャンスだと思うことにしたとか。そしてこう説明してきたんだそうです。
「風邪をひいたらくしゃみをするでしょう?それと同じで、お母さんも病気だから足をひきずっているんだよ。どちらもみっともなくないんだよ。」
我が子のことながら、きちんと理解して、わかりやすく伝えようと努力したのだということに感動すらしました。
ありがたいなあと思いました。
こうした説明で、お友達は大体が「そうなんだ!」と納得してくれて、その後私を馬鹿にしたような表現をすることはなくなったそうです。
もちろん、これは例外でもあって、こうした質問をあたたかい気持ちでしてくれたお友達もたくさんいたとのことです。
母親になって思うことは、自分のことはさておいて。やっぱり子どものことは特に心が痛みます。
でも、子どもにとっても母親というのは同じように守らなければ、私が強くならなければと思う相手でもあるようです。決して親が守るばかりではないのだなと思い知らされています。
こんなお母さんでも、みっともなくない?大丈夫?と何度も娘に聞いてきて、保育参観とか、運動会とか、そういう行事に行くことも控えるべきか考えたこともありました。行きたいという自分の気持ちはさておいて、娘がいじめられたりしないか不安だったのです。でも、絶対来て欲しいと娘は譲りませんでしたし、私もそんなに周りは私のことを気にすることもないからとカラリとしていました。事実を知った今、娘に対して申し訳ない気持ちもなくはありません。
でも娘がそんな風にして自分の中で戦い、社会に存在する悪意を打ち消していたことはものすごいことだなと感心してもいます。
悪意が自分の中に全く芽生えないかと言ったら嘘になります。
だからこそ喧嘩するのでも仲違いするのでもなく、きちんとした説明でもってそれを消そうとした娘を褒めてあげたいですし、それを受け入れたお友達たちもえらいね、と褒めてあげたいです。
こういう世界が、もっともっと、そして大人の世界にも広がったらいいのになと思っています。