だからお前さんは、一体何を考えているのかと、自分でツッコミを入れる私です。
カテゴライズと言葉。について考えてきたことを書きます。
最近ずーっとぼんやり生活しているのですが、頭の中は猛ダッシュ中で、あれこれ考えているんです。
外見はさいっこうにおバカで間抜けで、まるで何も考えていないかのような感じです。
と、さも考えていることを正当化するような発言をしましたが、この考えていることに意味があるのかないのか。ここはかなり疑問です!だから、結局のところ何も考えていないような気もしています。でも書きたいから、書きます。意味は、求めないでくださいね笑
以前より、自分の中でさっぱりわからなくなっているのが「普通」という言葉です。
普通の教育
普通の人
普通な毎日
これ、何なんでしょうか。
よく、会話の頭に「普通はね」という言葉が来て、私の現状を否定されることがありました。その時に私は「普通ではない」のだと自分を戒め、自分を責め、自分は「普通」になろうと頑張ったのです。
しかし、普通では無いと責めることは簡単でしたが、しばらくして目標が全くどこにあるのか定かではないことに気がつきました。
普通って何よ。私は何を目指して歩けばいいのよ。と。
そして、いろんな人に聞いてみましたところ、私が一番しっくりきた考え方は「普通というものは無い」というものでした。
普通という言葉はあるけど、実態はない。面白いですね。
じゃあ、何で普通という言葉はあるのでしょう?
それは人間が簡単に考えることができるように、というよりも考えなくて済むように、物事を伝えるのが楽なように言葉を作った、という考えを私は勝手に採用することにしました。
これがカテゴライズ。
人間が楽をしたいがために言葉を作ってカテゴリー化した。
しかし、そのカテゴリーを作ったがために苦しめられてることがいっぱいあるんですね。一体全体、人間は頭がいいのかお馬鹿なのか。
で。
何が言いたいかというと。
みんなそれぞれ。普通な人はいなくて、個性とかそういう言葉があるからめんどくさくなってますけど、多様性しか本当は世の中に存在していないということなんですね。
だから、普通を目指して頑張るということは変なことで、それと同じく普通を基準にして人をはじき物にしたりしてはいけないよなあと思うのです。
そして、私はなんとなく普通じゃないと言われると劣等感を覚えていたのですけれども、一生懸命「多数派ではない」と変換してですね、少数派なんだ、うん、と事実を受け入れるだけにするようにしています。自分を責めないように、責めないように。
娘は私のような母親に育てられて、「普通じゃない」出来事をたくさん経験して「普通はしない」苦労をたくさんしている、と考えていました。
普通に育てたかったんですね。
でも、周りをみても誰一人同じ教育を受けた人はいないです。なあんだ、と。ちょっと安心しました。
今は娘にとってこの母親をうまく利用して育ってほしいなあくらいの他力本願も加わって、気楽に一緒に過ごすことができるようになりました。
とはいえ、今日も娘は忘れ物をしまして、どうしたものかと頭を抱える私。
「普通の子は、一度言われたら忘れ物なんかしないよ、もう」と、相変わらず「普通」の概念に囚われて、変な文句を言い、「だから、普通って何なのよ!」と盛大なツッコミを入れる私でありました。