もう東日本大震災から10年なんですね。
驚くばかりです。
私は病んでいた期間、5年くらいは記憶もかなり薄いですので、本当にあっという間の10年という感じがします。
天災ですから、致し方ない、恨みきれない部分があると思います。
悔やみきれないし、やり場のない思いはどこに置けばいいのか。被災された方々の思いを考えると、本当に心が傷みますし、自分の無力さを痛感するのみです。
ただ、個人的に思うのは、天災は仕方がないもの、今後に向けて対策を考えようなどと少しは前を向くことができる気がするのですが、人災はどうしてもそうできません。
地震や津波は、対策という意味では少し足りなかった部分があるのかもしれませんが、この地震をまた糧にしていこうと、犠牲になった方々や今もなお辛い思いをされている方に、少しは前向きな思いを馳せることができます。
しかし原発事故は防げたものだと思えてならないのです。
しかも、処理についても今もなお、議論が終わらない。
というか、議論すら放棄されてしまっているのではないでしょうか。
くさいものに蓋をするのは日本人の得意とするところなのかもしれませんが、それではいけません。
声をあげることこそ勇気のいることで、議論をして喧嘩をすることこそ体力のいることで、決して無用な作業ではない、こういうことをしようとしている人を馬鹿にしたり、村八分にして、叩き潰してはいけません、と私は思うのです。
人災は絶対に防げます。
私は病気になってから、病気になったこと以外にもいろんな人災を目の当たりにするたび、なぜ私たちは同じ時代を生きる同士ではなく、敵対してしまうのだろうと、疑問でなりませんでした。
こういう争いがやまないことに、そしてこういう悪い心の方が「合理的」という理由で世の中に勝ち残ってしまうことは、とにかく辛いことでした。今もずっとずっと悩んでいます。
優しい心をみんなが持てるようになるには、どうしたらいいのでしょうか。
私も悪いこともいっぱい考えますし、人間の本能なんだと思いますけれども
でも、人のことを傷つけてまで得られる利益や幸せなんて、なんの価値があるのでしょうか。
確かに私は豚や鶏や魚や、生き物を殺して食べているし、皆さんの血税を注いでもらって生き延びることができています。
誰かのことを傷つけながら生きてきました。無意識ではありますが、きっと今も、誰かを傷つけているのだと思います。
私自身はそんな風に罪深く、助けてもらいながら生きています。
それでも辛いし、痛いし、泣かない日はありませんけれども、感謝の心も常にあるつもりです。
私みたいな人をもうひとり産みたくない、そういう気持ちで行動もしています。
でも、この幸せな暮らしは、誰かが泣いているならなんの意味があるのでしょうか。
みんなで幸せになりたいです。子どもたちに幸せな未来を、約束したいです。
みんなで笑える世の中になるにはどうしたらいいか、考える1日にしながら、追悼の日を過ごしたいと思います。