これでも一応、一生懸命学生時代に勉強してきたつもりでした。
でも、何にも知らないなということに気づくのに、そう時間はかかりませんでした。
一生勉強だとはよく言いますけれども、本当にそうだなと身を持って実感し続けています。
例えば離乳食。
離乳食って、赤ちゃんから大人になるにかけて食べるものでしょう。
って、ことを知っていたので、まるで知識があるかのように思っていましたけれども、こんな知識、知ってるうちに入りませなんだ!
そもそも何ヶ月から始めるのか、何から食べさせるのか、そして離乳食に段階があるとも知りませんでした。
売られている瓶詰めやレトルトにも「生後◯ヶ月」なんて書いてあって、そんな常識中の常識を、私は知らなかったのです。
そして今、忘れました。あれ?10ヶ月くらいって何食べてたっけ?みたいな感じで、もうさっぱり忘れていますが、まあちょっと本を開けば思い出すのでしょうから、学習効果はあったかなとも思います。
たかが離乳食、されど離乳食。離乳食ひとつでそんな具合ですから、子育てなんてもうてんやわんやです。
そのほかにも、いやー、もう知らないことばっかりだな!と生活をしていると思います。
先日、味噌を仕込みました。去年は出来なかったので、ちょっと久しぶりでした。10年くらい前から取り組み始めているので、夫と娘に指示しながらでしたが、夫も案外慣れたもので、娘は見様見真似ですが意外と上手に味噌玉をつくり、仕込みはちゃっちゃと終わりました。
そもそも味噌を作ってみようと思ったのも、自分が知らない世界、それに挑戦できるわくわく感からでした。
知人が「味噌作ってみたのよー」というので、「え?自分で味噌を作れるんですか?」と聞いたところ、「それが作れるのよー」というのでもうびっくり。早速帰宅して調べました。当時はまだこんなに味噌を作る人はいなかったので、味噌瓶ひとつ買うのにもあれこれ思案しながら買いました。およそ1年後に味噌ができて食べた時はちょっと感動しました。しかも意外とおいしいのです。
手前味噌ですがー!
なんて言いながら、実家にお裾分けしました。おいしいでしょー?おいしいでしょ?などと、子どものように自慢していました。
毎日のように口にしている味噌なのに、私には絶対作れない謎の特別な調味料だと思っていました。その作り方を知ることができたのも、実際に作ることができたことも、私にとってすごく大きな経験でした。なんでもやればできるのではないかと思い始めたのです。
それからいろいろ挑戦してみました。学校で教えてくれないことはこんなにもあるのかと、本屋さんに行ってびっくりしたものです。
家庭菜園もしてみましたが、なんとまあ難しいこと。
虫はつくし、水をあげすぎてもダメだし、売っている野菜のなんとすばらしいことかと感嘆したものです。
これまた本を買って、知識を得て実践するとうまくいくこともあるし、やっぱりだめなこともあるので、生き物を相手にするのは大変なんだなとつくづく思いました。
毎日の食卓に並ぶものが全部謎って何なんだろうと思いつつも、少しずつ挑戦しては自分のダメさ加減を知るにつけ、感謝の気持ちがいっぱい芽生えました。そして、挑戦できるんだというワクワク感が私をいろいろな世界へ連れ出してくれたと思っています。
子どもの世界はまた、私をいろんな世界に連れて行ってくれています。これは多くの方が実感しているところかと思います。
そして病気もまた同じです。知らなかった世界を見せてくれています。知りたくなかった世界も含めてたくさん見せられて、苦しい時も往々にしてありますし、今も落ち込んだりしている最中ではありますが、それも含めてあたらしい世界です。
で。
農業も料理も、私にしたら全く知らなかった世界だったのですね。医学も病気も同じだと気づいたんです。
つい、「医学部は頭のいい人たちがいくところ」と思い込んで、超プロフェッショナルな世界で、不可侵だと思い込んでいたんですけれども、そんなことはないなと思うのです。私でもいろいろ勉強してみれば見える世界もあるかもしれないし、何より人体実験を自分でできるんですよね。これはむしろ、とんでもないアドバンテージ!
よく、患者は主治医になるなと聞きますし言われることもありますが、そんなことはないと思います。ある本を読んだところ、敵を知らなければきちんと闘病できないのだから、大変でしょうが正しい知識を得てください、と書いてありました。そこに行き着くまでも十分大変ですし、そこでわからないことがあればどんどん先生に聞いたらいいんだと思うんですね。特に私みたいなケースは先生もわからないことがあるので、いっぱい考えれば考えた分だけサポートになることもあります。もちろんなんだそれは?みたいなこともありますけど 笑。
だから、私は無知ではあるんですけれども、挑戦できることは臆せずしたいなと思っています。
そうして繰り広げられる実験に付き合わされる家族は大迷惑としか思えないんですけれども、意外と腐って泣いて文句言ってるよりもずっと楽しそうについてきてくれるので、本当に実験に付き合わせています。
今の私の実験は、
●アレルゲン探し(つまり除去しています)
●腸内環境の改善方法(食べ物やサプリなどをある一定の周期で変更しながら、どうなったかを家族で報告しあっています)
こんなこと、もちろん教科書にも書いてないし、治療の指示も環境改善の指示もされたことはありません。
でも、免疫は腸内フローラが関係しているとか言いますよね?だから少なからず私の体にも関係しているのではと踏んでいます。
いわゆる民間療法的な?あやしいのかなあ。でも実は一定の効果があるとみています。
さーて。私の体は一体どこまで良くなるのでしょうか!!??
2020東京
オリンピックやパラリンピックの旗やグッズを見ると少し悲しくなってしまいます。
オリンピック、ひそかに楽しみにしていました。
もう予定されていた2020年が終わっているというのも信じられないですね。
かと言って、今の状況で2021年本当にやるんですか?と思います。
このために頑張ってきた選手たちは本当にお気の毒なことと思います。
でも、ずるずるやるだのやらないだの結論を先延ばしにして、これだけ世論が悲観的なのにやったところで本望なのか?とも思います。
命あっての平和の祭典ですから。
でも。やっぱり楽しみにしてはいたんです。
何とかならないのかなあ。
そもそも、オリンピックって観客を入れて、ひとところに集まらなければならないっていうことはいつ決まったんだろう?と思いはじめました。
こんなにリモートとか通信が発達しているんですから、うまいこと利用できませんでしょうか!?
大河ドラマの「いだてん」で知ったのですが、まあちゃんは日本が参加できなかったオリンピックの時、水泳大会をオリンピックの開催時刻に合わせて日本で開催したとか。それでタイムを競った。世界の記録としては認められなかったそうですけれども、大いに盛り上がったようです。
そう!
偉大なる先人たちがすでにやってるんじゃないですか!!
採点競技やタイムレースなら、それぞれの国のそれぞれの会場で行って、世界にその映像を発信する。
採点者も各国それぞれでやることも可能ですよね。
技術的に大変かもしれませんし、公式の記録にならないよと思われるかもしれません。
水泳なら、例えば水温、水質の違いで記録に違いが出ちゃうでないのと言われたらその通りです。
でも、根本は平和の祭典であり、一般人である私みたいな人間は頑張っている人たちの姿を見られるだけで元気をもらえます。
今、世界がコロナで苦しむ中でそういうお祭りと言いますか、祭典もイベントも必要だと思います。記録はちょっと今回は我慢してもらう感じになってしまったり、イレギュラーなものになる可能性が高いことは確かなんですけれど、新しい形のオリンピックを模索するいい機会だとも思うのです!
例えば渡航費とかが出せない国の選手も参加しやすいとかね!良い面もあると思うのです。
残念ながらサッカーとかそういう競技は確かに厳しいので、12年後とかにTOKYOでとは思います。ぜひに。
で、今回はCHALLENGE OLYMPIC みたいにですね、そういう新しい形を見つけつつ、世界中に勇気と元気を届けられるオリンピックを日本が作れたら最高にいいのになあ、なんて思うんです。
いや、技術的に大変なことは知っています。
時間もお金もないかもしれない。
間に合わないかもしれない。
でもやってみませんかねえ。音楽の試験ですらリモートでできるほどの技術があると聞いたことがあります。それは日本の技術だと!
すごいじゃないですか。ここへきて、世界へ発信できるかもしれない。日本の底力を。
私は全然だめですよ。もちろん。なーんの技術もお金もコネクションもない。だから無責任な発言ができるんですよ 笑。
でもね、このまま手をこまねいて時間だけずるずるとすぎて、誰もが悲しい結末を迎えるくらいなら、やってみてだめだったー!くらい当たって砕けてもいいのではないでしょうか!
オリンピック楽しみなんだけどなあ。切なる願い!!
なぜ病気になったのか、という問いはあまりしたことはありません。
が、なぜ病気は私を選んだのだろうと考えたことは何度もあります。
どちらの問いも、一体何が違うのよ!という総ツッコミが聞こえてきそうですが、私の中ではニュアンスが違いまして、前者はかなり後ろ向きの問いなのにたいし、後者は多少なりとも前向きな発想です。
病気になったのだけれども、きっと意味があるのだろうし、何か私がすべきことを提示されているのだろう
と、考えています。
しかし、残念ながらその答えは出ていません。笑
あたりもついていません。ま、そんなもんですよね。
そんな中ではありますが、「病気になってよかったこと」は割とたくさんありまして、自分でも気づいています。
病気にならない方が良かったに違いないのですけれども、でもその中でもよかったなあということはたくさんあります。
私には大切で素敵で稀有な友人・知人がいるんだということを改めて教えてもらいました。
その私の知人のひとりは、清楚で凛とした佇まいの、落ち着いた美しさのある女性です。
出会いは中学生ですが、中学生の時からそのような感じでしたので、当時は特に憧れを通り越して雲の上の存在のように思えました。
綺麗な人にはどこか腹黒いところがあったりするのも仕方ないと思うのですが、そういった裏のない、不思議なひとです。そうですね、心がきれいなんですよね。外見は内面を表すと言いますしね。
そんな素敵な人が私の友人です。
以前、「自分が生きている限り、誰かひとりでも幸せになってくれたら」と思ってお仕事をしていると話しているのを聞いて、なんて素敵な考え方を持ち合わせながら生きているんだろうと感銘を受けました。
私は私に何ができるのかばかりを考えていた時期で、できないことに目が行きがちだったのです。
困っている人を助けたいとか、そういう発想でもありました。マイナスからゼロに、そういう思考でしょうか。
だから、「誰かがひとりでも幸せに」という考え方は私に圧倒的に足りない考え方だと、目から鱗でした。
友人から感銘を受けられるなんて、私はとても幸せだと思いました。
その友人が、最近、私のことを心配してくれて
「深呼吸してる?」
と連絡をくれました。
いやー、見事に忘れていましたよ。
すぐさま、ふうふうと深く深く呼吸を3度ほどしまして、肩の力が抜けるのを感じました。
知らず知らずのうちに肩に力が入っていたのだと驚きました。
見抜かれていて恥ずかしいなと思う一方で、心底感謝しました。
私にはまだまだ自分にしてあげられることがある。筋トレ、栄養、ダイエットに薬、そういうことではなくて、いたわること。
すっかり忘れていたような気がします。
私は生活していく上で一番大切なことを忘れていたのかもしれません。
こうしてひとつずつ、成長していけたらいいなと思います。
病気の人間の家族というのは、患者とは違った大変さがあると思います。
そしてその大変さレベルは、患者と同等かそれ以上だと思っています。
ひとつは肉体的にも精神的にも、物理的にも時間的にも大きな負担を強いられるということです。
これは言わずもがなですね。
ただ、この詳しい内容は意外と知られていないかなとも思います。これはそのうち書けたらと思います。
もうひとつは、逃げられるということ、から逃げないということです。
患者は病気を受け入れるも受け入れないも、逃げることだけはできません。
逃げるには死ぬしかないわけで、生きる上では逃げることは不可能なのです。
しかし、家族は逃げようと思えば逃げられる。
その中でいかにして向き合うかというのは非常に難しい問題だと思うのです。
かくいう私の家族たちも逃げなかったかといえば、そんなことはありません。
本人たちに自覚がない部分も含めて、逃げたということはもちろんあります。
それを患者である私は責めることもしましたが、かと言って責めきれないな、と言いますか、当然だなあと思っています。
よく離婚しなかったな、よく戸籍抜かれなかったな、よくぐれなかったな、みたいな、これは半分冗談であり半分本気の感想です。
最後に、病気の人の家族というカテゴリーは別だなと思うのです。
そして、その分野で、心理的にも経済的にも手助けがあればいいのになと思うのですが、そういうものは今のところないなあと思うのです。
せっかく手伝ったつもりがうまく行かない時、これなんかは共働きの夫婦で家事を分担している時とあまり変わらないかもしれません。しかし病気の人がいると家事も少し多くなったり、独特のものが出てくるので(例えば収納場所が変わったり、料理もメニューがさまざまになったりします)ぶつかることが多いと思います。お互い余裕もないので尚更かと。
また、病気の家族の治療がうまくいかないことでがっかりという感情がわいてしまう。それを共有できる人はいません。家族同士でも口にすることは我慢しちゃう。なんせ病人自身が一番堪えているのですから、もうやだ!とまでは言えないのですね。
辛さは比較できるものでも、比較するものでもないのでしょうけれども、患者の家族が患者を差し置いて辛いと言うのはタブーなような空気がある気がします。患者の方が辛いと思いがちなのです。真実は別にして。
仮に辛いねと泣き合うことはしたとしても、治療を頑張ると言ってる患者を横目に、その看病は誰がするの?とは言えません。自覚することすらないかもしれません。でも家族も大変な苦労を背負うはずです。そこに対する労りはない、従って逃げてしまう人もたくさんいるのかなと思います。
他にも、笑って欲しい、良くなって欲しい、具合が悪いなんてもう嫌、こだわりの強さとか何なの?神経質すぎやしない?このようなことを素直に言えると楽だと思います。
でも、それを患者に対して言うと楽にはなるけれど、罪悪感もあるように思います。だから他にそんなよりどころがあったら良いのになと私なんかは思います。
1番のあるあるは、
飽きた!
だと思います笑。もう痛いとかだるいとか辛いとか言われるの飽きた!とね。
飽きて当然です!
疲れなかったら頑張ってない証拠です笑
本当にご苦労様なことです。
私はつい、ごめんなさいを言いたくなりますし、よく言っていますが、家族はそれを望んではいないようです。
ありがとうをできる限り言うようには心がけています。
さーて。何かできることはありますかねえ。