十勝の活性化を考える会

     
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炭鉱町の人口減少

2021-08-23 05:00:00 | 投稿

昭和30年代までの日本のエネルギーは石炭で、釧路にも30カ所以上、十勝にも浦幌炭鉱の1カ所の炭鉱があったそうである。12年前、昭和45年(1970年)に閉山した阿寒湖に近い雄別炭鉱の跡地を見にいって驚いた。炭鉱町には誰も住んでおらずゴーストタウン化し、今から50年前に1万5千人が住んでいた町などとはとても思えなかったのである。

我が国の高度経済成長期は、1950年代から1970年代をいう。1968年にはGNP(国民総生産)が資本主義国で第2位に躍進、この間、自動車産業や化学産業などが大きく発展を遂げたが、一方で衰退産業も多くあった。その中に石炭産業があり、参考までに最盛期の人口と最近の人口をその減少率で見てみよう。

【夕張・空知炭田】

・夕張市:12万人から7千人(約1/17)、歌志内市:4.6万人から3千人(1/15)

なお、歌志内市は日本で一番人口の少ない市である。

【筑豊炭田】

・田川市:10万人から5万人(1/2)、飯塚市:20万人から2.6万人(6/10)

・大牟田市:20万人と11.2万人(約1/2)

以上で分かるとおり、炭鉱町の人口減少が激しいことが分かる。北海道は、戦後まもなく樺太などからの引揚者が多く、日本で一番大きい人口を占めていた島(県)であったが、現在は約520万人で、30年後には2割減少の約400万人が予想されている。

我が国は自動車産業や半導体産業が支えているが、産業は社会の変化と共に変化していくので、20年後にはガソリン車は生産ストップし電気自動車に置き換わっていくだろう。すでに中国では、日本より格段に安い電気自動車を販売開始しているので、将来、我が国を担う産業は何になっていくのだろうか。 産業や人口減少に関連しているので、 職場の同僚からもらった随筆があり紹介したい。                   

校歌が変わっていた ”

『私は、1950年(昭和25)生まれ。戦後5年経ち、復興、朝鮮戦争特需の時である。産気づいた母ともども、父の自転車に乗せられガタゴト道を小1時間、母の実家で4人兄弟の長男として世に出た。

 田川市立後藤寺小学校の入学は昭和32年、当時、筑豊地方は国内有数の産炭地であった。現在、実家の維持、母の世話のため、毎週、5時起きで福岡市から田川市へ、約2時間を掛けて通っている。小学校のあった場所は前のままであるが、子供の姿を見ることが少ない。昔はどこにでも子供がいたような気がする。当時の校歌には、石炭のことや人口、生徒数のことがあったように思う。今日に至っては時代にそぐわず、どうなっているのか前々から気になっていたので、パソコンで検索してみたら案の定、昭和46年に改定されていた。

第一校歌 1番(在籍時)

 文化のしるし石炭の うずまく煙空をこめ 地に豊かなる恵みあり

 ここ我校の庭の面に 芽生えし若木三千の 幸ある行手君みるや

 

第二校歌 2番(昭和46年改訂)

 春日の森の朝風に こだまがはずむ ふみの庭

 強い子良い子は 楠の木の 木よりも高く伸びるのだ

 ああ後藤寺 後藤寺小学校

 産炭のピークは、昭和33年頃とされている。私はこの前年の入学である。当時、田川市の人口は10万人、後藤寺小学校の生徒数は、2,820人(校歌の三千の~)、平成30年3月の人口は4.9万人、生徒数は494人。人口は半減、生徒数は8割強の減少。この60年の間にエネルギー、産業構造の変化、少子高齢化も加わり変貌は凄まじい。

 当時、子供たちは三重構造のなかで過ごしていた。親達は、炭鉱の管理・事務職、坑内労働者、地元の商店や農業従事者等に三分される。坑内労働者は、中小炭鉱ほど危険や過酷労働であるが、経歴等を問われず対価も得られるので、様々な人がいた。酒、バクチ、けんか、貧困は日常茶飯事、一方で産炭地には“友子制度”があり、相互扶助、思いやり等もあり、子供たちはその影響を受けていたものと思われる。

「川筋かたぎ」はそのような世界でうまれた。大手炭鉱の管理職、特に三井鉱山等は、板塀の巡らされた桜の木の植えてある庭付きの邸宅に住んでいた。坑内労働者は三軒長屋で、便所、風呂は共同。子供の服装、教育(バイオリン、ピアノ対賭けパッチン・ビー玉、家事手伝い)、食事等々、「月とすっぽん」の世界であった。

しかし、子供達はいじめもなく、それなりに元気でやっていたような気がする。辛い思い出もある。弁当が無く水ばかり飲んでいた友、あまりの空腹にクレヨンを食べて口の中が群青色になった友、事情は分からなかったが無口で暗かった友、年中同じ服装の友、小3の頃、けんか友達であった友が、父を粉塵爆発で亡くし親戚へもらわれていく時、「おまえにさいならを言いたいといって泣きながら連れていかれたよ」と、母から聞いた。泣くことが、本人として精一杯の抵抗だったのだろう。子供ながらに、こころが痛んだ。

後藤寺中学校時代は炭鉱事故や閉山が相次ぎ、子供たちも荒れていたような気がする。3年生になると一部授業はクラス内で就職組と進学組、約半々に分けられた。就職組は集団就職で都市に行く者が多かったのだろうが、見送りの記憶は無い。“子供なりにおかしい”と思った。授業中に机をナイフで削ったり、爆竹を鳴らしたりする者もいた。暴力、脅しを受けた先生や上級生もいた。就職組の悪そう坊主たちは、一部下克上もあったが、序列らしきものができていた。私を含め同級生は、やられたことはなかったと思う。

子供なりに精一杯生きていた。みんなどうしているのだろうか。私は地元高校を卒業後、ずっと田川を離れていることもあって小、中学校時代の話のできる友人はごく僅か。同窓会の案内は皆無である。親、環境はどうであれ、子供は環境を受容し、ひたむきにいじらしく生きていた。

生涯、教育に懸けた東野義男氏の詩が浮かんだ。』

「子どもは星」 

どの子も子どもは星

どの子も子どもは星

みんなそれぞれがそれぞれの光をいただいてまばたきしている

ぼくの光を見てくださいとまばたきしている

わたしの光を見てくださいとまばたきしている

光をみてやろう

まばたきに応えてやろう

光をみてもらえない子どもの星は光を消す まばたきをやめる

まばたきをやめようとしている星はないか

光を消してしまおうとしはじめている星はないか

光を見てやろう 瞬きに応えてやろう

そして天いっぱいに子どもの星をかがやかせよう

「十勝の活性化を考える会」会員