十勝の活性化を考える会

     
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面従腹背から眼横鼻直へ

2021-08-25 05:00:00 | 投稿

面従腹背とは、読んで字のごとく腹の中では何を考えているか分からないことで、“眼横鼻直とは、あたり前の事実をありのままに見て真実を受け取ることである。真実とは真理に置き換えてもよく、真理とは本当であると認められたことで一つしかないのである。すなわち、禅語の「眼横鼻直」という言葉は、「眼は横に並び鼻は縦に顔に付いていること」のように、「太陽は朝に東から昇り、夜に西に沈んでいくということ」で、当たり前のことをいっている。

私たちは、当たり前のことをあるがままに受け入れているであろうか。自分の主義主張にとらわれて他人の意見を聞かず、本当の姿を見失っているのではないだろうか。先日、元文部科学省事務次官の前川喜平氏が書いた「面従腹背」の本を読んだ。その抜粋は、以下のとおりである。

『「面従腹背」は、加計学園問題に関するあるテレビ局のインタビューを受けていたときに口にした言葉だ。「私の座右の銘は面従腹背なんですよ」と語った覚えがある。文部官僚として本当に国民のため、子どものため、現場の教師のために働くことを考えたら、その時々の上司である大臣など権限を持つ政治家の言うことをそのまま聞くわけにはいかない場合があるのだ。

政治家は国民から選挙でえらばれ、直接国政を信託されている。一方、官僚は競争試験で採用され、その身分は保証されている。ゆえに国民は政治家を取り換えることはできるが、官僚を取り替えることはできない。そう考えれば、政治家は官僚よりも上位にいなければならないことは当然だ。しかし、官僚には官僚の専門性があり、長年にわたって蓄えられた知識と経験がある。政治家と官僚との間には、ある種の緊張関係がなければならないと思う。どちらかがどちらかに依存してしまってはいけない。

38年間の役人生活で、「やりたかったことでやれたこと」「やりたかったことでやれなかったこと」「やりたくなかったことでやらざるを得なかったこと」「やりたくなかったことでやらないで済んだこと」を考えてみると、その割合は1対4対4対1くらいだろうか。政治家の下で組織の中で仕事をする以上、やりたいことばかりできるわけではない。 しかし、役人がいなければ世の中は回っていかない。誰かが、やらなければならない仕事だ。制約の多い中でも、行きつ戻りつしながらも、少しずつぃ前に進むことはできる。そして、政治家が理に合わないことをせよと言う場合には、面従腹背も必要な時があるのだ。後輩の官僚諸君には、そういう粘り強さや強靭さを持っていてほしい。

 私自身は、すでに官僚を辞めて1年以上になる。政治家と付き合う必要もなくなったし、やりたくないことをやらされることもない。檻の中から解放された気分だ。やりたいことをやり、言いたいことを言って過ごしている。新しい友人もたくさんできた。

だから、「面従腹背」は、もはや私の座右の銘ではない。あるとき、「座右の銘は?」と訊かれたので、はて今は何だろうと考えて、ふと出てきた言葉が「眼横鼻直」だった。「がんのうびちょく」または「げんのうびちょく」と読む。

鎌倉時代に宋の国から曹洞宗を伝えた道元禅師の言葉だ。眼は二つ横に並んでいる。鼻は縦についている。当たり前のことを言っているに過ぎない。ありのままでいいということだ。第二の人生は、眼横鼻直でいこうと思っている。(後略)』

この本を読んで思ったことは、官僚の人たちもずいぶん悩んでいるのだなーと思った。近畿財務局の赤木俊夫氏は、「忖度で、あったものを無いことにすることはできない」として自殺した。日本の国をもっと良い国にするためには、赤木俊夫氏の死を無駄にしないことである。 「無理が通れば道理が引っ込む」ような国は、孫のためにも良くないので、改めなければいけないのである。

公務員には、「ためらい、たらいまわし、他人事」を改めてもらいたいと思っている。憲法第十四条には、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と書かれている。公務員に忖度は、あってはならないのである。

「十勝の活性化を考える会」会員