十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その23 二宮尊親「興復社」

2020-03-13 05:00:00 | 投稿

月末、二十九日には、父の志を継いで、岡山医学専門学校に学んでいる余作(六男)が、訃報に接し岡山から駆け付けた。余作は幾つになっても壮健で矍鑠とした、あの父が、今は瞼がくぼみ、覇気がうせ、悄然としている姿に一驚した。

 余作は、寛斎に「父上、かねてから畏敬の二宮尊徳翁を祀る豊頃の二宮牧場を訪問されては如何ですか」と、出かけることを勧めてみた。
「二宮尊徳!」と云われて。消沈した寛斎も思わず心が動いた。
寛斎にとって、世のため、人のため、国のためと云うテーゼは、大義名分と云うより、血肉となった寛斎そのものであり、さらに、北海道開拓でも”医学をもって人のために尽くしたい”をさらに敷衍させ、”医学を超えて人のために尽くしたい”と燈を掲げたものの、いま一つ清冽な思いが欲しい。思いと云うより確たる”座標”であり高い”理念”である。
余作の助言に背をおされ、いまだ頬はこけ、食物の味覚ももどらず、ときに眩暈を覚えるものの七月五日、余作が同行し牧場を出発した。途中、足寄橋で送って来た余作と別れたが、陸別に戻る余作の後姿を遙かに眺めて、行く先への不安がよぎるせいか、一層の脱力感を覚えたが、強いて歩を進めたのである。
寛斎は北海道開拓以前の徳島時代から、二宮尊徳について彼とは、畑違いながら、篤農家であり、農政家として尊敬していたものの、交際し偉業に接する機会がなく経過。渡道後、たまたま、孫・尊親氏が道南の太平洋に接する茂岩(現・豊頃町)に、二宮牧場を興し、祖父の遺業を受け継ぎ、農家の自立を促した農業経営を行っていることを知り、再三の書信を通じて、声咳に接したいと願っていた。それがかかる事態から実現するとは、思いもよらぬ僥倖である。
彼は、足寄を経て本別にぬけ、しょぼしょぼと足を引きずり、数日来の豪雨のため、川になった道は泥濘で歩を進めず、アイヌに背負われ胸までつかる泥川を渡河。口にするのは一日たった一膳のうす粥のみ、疲労憔悴した姿で到着した。
 二宮尊徳と云えば、戦前、日本全国の小学校には薪を背負って読書する姿の銅像が安置されていたので、誰知らぬ者のない農政の偉人である。
彼の基軸である「報徳精神」は、勤倹、実行、分度によって、土地を興し暮らしを豊かにするものである。
尊徳が飢餓、荒廃から救った村は六百五ヶ町村、また、負債が嵩み困窮者が多い村の、借財完済を成し遂げたのは、二百ヶ町村を超え、それは、北は奥州一の関から南は九州熊本におよび、この事業の詳細な記録・日記は一万冊、二宮尊徳全集は三十六巻である。長男・尊行は尊徳の没後の事業を引継ぎ、嫡孫・尊親がさらに相続し、その教えを敷行するため、豊頃村藻岩在牛首別に二宮村を立てたのである。


寛斎がここ尊親の興復社を訪れたのは、祖父・尊徳の業績と遺訓に接し、農民の作業と実際の生活から学ぶことであった。二人は初対面ながら、「戊申の戦いのさい、相馬に奥州出張病院が設けられ、先生が頭取でおいでになったのを覚えております」

「と、申しますと!」
「祖父が相馬藩の依嘱で、日光御神領の荒野九百四十町歩の開発を手懸けており、私はまだ十四歳でしたが、石神村におりましたので」
「いや、儂も尊徳先生の遺業が相馬で継がれているのを、その時、改めて知りました」
と、旧知の仲のように、一瞬にして打ち解けたのである。
尊親は、問わるるままに淡々と苦労話を語った。「移民の一回目は十九人、二回目が四十人、対に相馬の興復社の者が多く、始めの六ヶ月は食料をはじめ種子、農機具、諸費用を支給し、安心して作業が進められるように配慮したこと。
また、冠婚葬祭、道路補修、休日の設定などにも規約をさだめ、問題や悩み、改良の目論見などについても話し合いの機会を設け、生活改善を図ること」などについて、寛斎は、一々深く頷きながら、夜の更けるのを忘れて聞き入った。さらに
「開発した新田は、汝らのものになり、汝らを潤す」と云う農政家・尊徳の理念に接し、「これだ、これこそ農民の願望であり、富国安民の良策に他ならない」とわが意を得たのである。
精神の落ち込みと、萎えた体の寛斎を、尊親夫妻は食味の調理に意を用い、また、粥を漸次に濃くし、食事の量の増加、滋養物を交々饗するなど、きめ細かい配慮と厚意によって、寛斎の体力は次第に回復した。
体が「健」やかになると、こころも「康」らかになる。夫妻の懇篤な対応によって、気持ちが次第に和むのが、我ながら穏やかに感得できる。
寛斎は、日々、尊徳翁の霊前に額づいて霊位を拝し、遺訓を熟視し、遺書を拝写して一週間が過ぎると、まさに精神上の快活を得るようになった。
そのため、「鬱」を忘れ食気は次第に増加して一層の快を覚えるに至ったので、心から謝意をもって辞去。彼はこの心身の変化について、「あの時、誤って空しく床の上に在り、只、愚図愚図と軟弱に過ごしていたら、心身ともに益々衰弱したであろう。道中、泥水の困苦や過度の運動による食欲の振起と、尊徳翁の霊前に侍した感動により、精神上の活溌がすすみ、さらに尊親夫妻の厚意の切なる食料を饗されたことを感じて、儂はよみがえり回復した」と、述べている。
思いと行為とでは大違い、苦難苦闘の斗満開拓に立ち向かう寛斎にとって、尊徳を拝し、興復社の実際を視察した結果、己れの事業に一層の確信を得、彼は、引きずるような足取りでやって来た時とは別人のように、軽やかに歩を移して陸別に帰着した。


旬日後、又一に召集令状が届いた。

渡辺 勲 「関寛斎伝」陸別町関寛斎翁顕彰会編

 

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (stagea_1963 さえちゃん)
2020-03-13 10:23:35
はじめまして。
私の教室のブログに訪問していただきリアクションもたくさんありがとうございます^_^
大きな文字で、見やすいですね^_^
また訪問させていただきますね。
返信する
Unknown (stagea_1963 さえちゃん)
2020-03-13 10:46:09
なんと、フォローまでしていただきありがとうございます^_^
とても嬉しいです♡
私もフォローさせていただきましたので、今後とも宜しくお願い致します♫
返信する
コメントありがとうございました (会員K)
2020-03-13 11:08:21
さえちゃんさん こんにちは
フォーローありがとうございます

すてきな音楽教室ですね
音は聞こえませんが・・・心が和みます
これからもよろしくお願いしますね
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