愛国心という言葉がある。いまのウクライナ人を見ていると国を守ろうとする愛国心がある。愛国心があるからこそ、ロシアと闘っているのである。外国で働いていたウクライナ人が祖国を守るために戻ったのは、愛国心があったからであろう。
この愛国心に関係するが、知人にキャリアだった人がいる。彼は文章を書く時、日本は?と書かずに、我が国は?と常に書いている。これには、当事者的であるかということと、第三者的であるかとの違いがあると思う。
私たちが、我が国といわずに日本という場合、日本の国をちょっぴり第三者的に見ていないだろうか。少なくとも私には、そのように感じる。公務員の上級職国家試験の志望者が減っているのは、給料が安いだけではなく愛国心が無くなっているからであろう。
戦地に赴むいた兵隊が、戦争の話をしないのは人間同士が殺し合うことを思い出すからだろう。人間が新型コロナで死ぬのと戦争で死ぬのでは、大きな違いがある。だから、第三者的に戦争を見ている人間にとっては、平和を語る資格はないのではないのでないだろうか。今のロシアとウクライナの戦争は、対岸の火事と見ている日本人が、私を含めて多いように感じている。
日本は周囲が海で囲まれているが、ユーラシア大陸の国々は陸続きで様々な民族が住んでいる。イデオロギーや宗教にも違いがあるので、戦争になるのだろう。世界中の人々が、同じ言葉で話すことができれば戦争も少なくなるだろう。ただ残念ながら、アイヌ民族を見れば分かるとおり、少数民族の言葉は話せなくなる場合が多い。お隣の中国では、ウイグル族など大小50余りの民族が住んでおり、言葉も違っているところがあるという。
「十勝の活性化を考える会」会員
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