『奥羽出張病院では、頭取の関寛斎が、毎日超多忙の生活の中で、就寝前に必ず筆を取って、綴じた延べ紙に、その日の出来事を細大漏らさず書いた、『奥羽出張病院日記』が、五冊と、付記一冊がある。その第壱号に、驚くべきひとつの出来事が、書いてある。
「六月二十五日、曇り微雨。当番医小松秀謙・下山田主計」と書き出し、次に三国丸出船で、横浜の基地病院へ後送する、長期要治療の患者十七名と付添医師一名の、姓名と所属隊名、および患者が舟中で用いる布団・浴衣・下着類や、創傷処置用の医療品・薬品、その他患者に舟中で食べさせる梨や鶏などの食料を、細部まで詳しく書いた後、次の事を付記した。
「一、御使番より召捕人不快に付き付属の内罷り越し、診療致すべき旨来状に付き小松秀謙罷リ出診察の上処置致候事」。これは寛斎が目立たぬよう、当番医に命じて敵の捕虜を、病気から救ってやったという記載だが、さりげなくさらりと二行に、当日の多様の業務を記載した行間に、うずめるようにして載せている。こうした寛斎の考えと行動は、彼が生后三歳にして母に死別し、養父関俊輔の、世に稗益する志を忘れるなとの、教育と感化、次に十八歳で佐倉順天堂に入門、師佐藤泰然の薫陶と教育、さらに長崎で蘭医ポンペより受けた、基礎医学および臨床医学の徹底した西洋医学教育、およびドイツ国立イエナ大学医学部教授フーヘランドの著作を読んで深い感動と影響を受け、寛斎の心に確立していた、博愛人道主義の発露であろう。
徳川幕府が、武家の守るべき義務を、定めた法令『武家諸法度』が、まだ生きていた時世である。敵に利を与える行為は、死罪にも該当し兼ねない時、寛斎の行為は、ほんとうに勇気ある行動で、フーヘランドが「医師の義務」に載せた言葉「医の世に生活するは人の為のみ、己がために非ずという事を其の業の本旨とす。病者に対しては、唯病者を見るべし、貴賊貧富を顧みることなかれ」。寛斎が戦の最中にあって、敵味方や人権・宗教の差異を顧みず、その本務を全うしたことは、やがて明治の世となり、日本にも生まれて来た、「日本赤十字社」の先駆となったといってよい。』
「松村病院史 第一巻」松村亨先生著
『 凱旋、そして辞職
一八六八(慶応四)年9月22日には会津鶴が城が落ち、翌日には庄内藩も降伏して、奥羽追討の戦いは終わりを告げた。寛斎は、10月26日平病院をたたみ、傷病兵約60名を護送しながら飢旋の途についた。
途中一泊した土浦藩での出来事である。この藩では、維新のカゴ?に乗り遅れたのを挽回するつもりがあったのか、一行を下にもおかぬもてなしで、官軍の高官である寛斎を大名格の駕寵にむりやり乗せ、大名行列並みに送った。日記に「不図、下ニ下ニト町同心ノ触立ノ声アリ、恥入侯」これが寛斎の感想だった。
東京に帰還した彼は、その功により総督府や太政官から褒詞と恩賞金100両、黄八丈の羽織などを受け、面目を施した。官軍の実質は諸藩連合軍であったから、各藩は野戦病院で受けた手厚い看護への感謝のしるしにと、寛斎にいろいろと金品を贈ったが、彼はすべて直ちに上司にこれを提出し、一切、私しなかったという。彼はまた恩賞金のうち10両を、自分の臍の緒を納めてある故郷の面足神社に寄進した。その板額が今も同社にある。後年、父寛斎を偲んで息子たちが出版し、恩賞の黄八丈で装訂した『関寛斎』(鈴木要吾著)特製版が濱口家に贈られ、現在銚子のヤマサ本社に所蔵されている。
凱旋した寛斎は、この時、世俗的な栄達の道という点から見れば、後に徳冨蘆花が「順に行けば軍医総監男爵は造作もない」と評したことが、必ずしも誇張ではない地点にいたと言える。しかし彼は、奥羽戦終結の時点で、すでに病気を理由に辞職願を出して却下されている。そして、東京帰還後残務整理を終えると、松本良順の逮捕から10日ほどたった12月17日に、大村あて再び辞表を出し、あっさりと身を引いてしまった。
この辺に関しての彼自身の記録や、それを裏付けるような傍証は、何も残されていない。
しかしその前後の彼の言動などから、ある程度推測することはできる。
その一つは、彼の恩師泰然や養父俊輔から影響された彼の思想と処世そのものであろう。貧しくとも自由であれ、上官に膝を屈するな。そのためには「公事にかゝわるべからず」というのが、農民の知恵ともいうべき養父の口癖であった。初めて宮仕えをした寛斎にとって、維新前後のこの時代は、矛盾撞着・朝令暮改の最もひどい時期であり、寛斎は身にしみて養父らの教えをかみしめたことであろう。』
「関寛斎 最後の蘭医」 戸石四朗著
「十勝の活性化を考える会」会員 K
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