天安門事件は、民主化を求める学生らを中国軍が武力で鎮圧したもので、今年で30年となった。1989年4月15日、改革派指導者だった胡耀邦・元総書記が死去し、その追悼をきっかけに学生らが天安門広場に集まり、大規模な民主化運動に発展した。
5月20日、当局は北京市に戒厳令を宣言し、6月3日夜から4日未明にかけて軍を投入し鎮圧した。当局は死者を319人と発表したが、死傷者は数万人に上るという説もある。ただ私たち家族は、天安門事件があったからこそ、その年の11月、初めての中国旅行が出来たのかも知れない。
世界は、1989年の天安門事件を機に大きく変わった。社会主義が破たんし、東西冷戦も終わった。しかし、中国だけは変わらなかった。政治改革は全く進まず、習近平になってから更に、中国共産党の一党支配が強化された。
ただ、経済の自由化は、中国を経済大国にしただけでなく、軍事大国にも変えてしまった。平成の30年間、世界はそれまでの常識をすべてリセットして生まれ変わったのに、中国だけは同じ姿のまま巨大化し続けている。
私は天安門事件を振り返るたびに、日本、北海道、十勝の平和を思わずにはいられない。と同時に日本はいま、それまでの常識をすべてリセットして生まれ変わらなければならないと思う。なぜなら人口減少が始まったからで、特に北海道の減少が大きいことが予想されている。
「十勝の活性化を考える会」会員
注) 天安門事件
天安門事件は、1989年6月3日深夜から4日早暁にかけて天安門広場で発生した「血の日曜日事件」である。その発生日から、略して「六・四」ともよぶ。
同年4月中旬の胡耀邦元中国共産党総書記の死を悼む形で起こった民主化運動は、“最後の皇帝”として君臨しつつあった鄧小平の「人治」に対して、「法治」を求める学生や市民の大衆運動であった。
当初、学生たちが中心で始められた追悼デモは民主化要求のデモに発展し、やがて広範な市民の参加を得て、広場の占拠、ハンストなどを展開した。さらに政府機関の役人、マスコミ、軍人なども参加し数万人規模でデモが繰り広げられた。この背景には、独裁的支配を強める小平と長老政治に対する不満、経済開放政策が引き起こした物価高騰に対する抗議、さらに東欧諸国で進行していた民主改革の動きの影響などがあった。
同年5月中旬に、当時のソ連ペレストロイカの旗手ゴルバチョフ書記長が訪中したこともあって、連日、100万規模のデモ隊が天安門広場を埋めつくした。同年5月20日には北京市に戒厳令が布告され、ついには「六・四」の武力弾圧として人民解放軍が戦車などを出動させ、学生や市民に発砲するなどして多数の死者を出した。
(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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