2020年7月28日付け北海道新聞(6面)の「論壇」に次の記事が載っていた。
『コロナ禍で医療崩壊を起こしたイタリア、スペイン、アメリカなどで、「トリアージ」という言葉が盛んに語られた。
集中治療室や人工呼吸器の総量が限定される中、すべての患者を救うことが出来ない場合、「命の選別」をどう考えるのかが問題になったのである。優先的に治療されるべきなのは誰なのか。高齢者から順に断念せざるを得ないのか。そんなことが、繰り返し論じられてきた。
日本では、れいわ新選組の公認候補として昨年の参議院選挙を戦った大西つねきの発言が問題になった。大西は配信動画で、次のように語った。
「生命、選別しないと駄目だと思いますよ。はっきり言いますけど、何でかというと、その選択が政治なんですよ。その選択をするのであれば、もちろん高齢の方から逝ってもらうしかないです。
この発言をめぐって、同じれいわ新選組に所属する参議院議員・木村英子から、厳しい異議が提示された。
木村は重度の障害を抱えており、大型の車いすを使用している。彼女は「大西つねき氏の【命の選別】発言について」(参議院議員木村英子オフィシャルサイト7月15日)の中で、「施設にいた頃の私のトラウマを思い出し、背筋がぞっとした」という。
木村は幼い頃から「【殺されるかもしれない】という避けがたい恐怖」を抱いてきたと言う。「命の選別」が、政治の決定に委ねられるとしたら、「常時介護の必要な重度障害者の私は、真っ先に選別の対象になるでしょう」。
同じ所属政党の候補者が語る「命の選別」論を、木村は暴言と批判する。そして、この発言が大西個人に還元される問題ではなく、社会全体の問題と論じている。
木村が的確に指摘するように、「命の選別」論は、障がい者の生きる権利を踏みにじる暴論へ容易に転嫁する。そのグロテスクな表出が、2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件だろう。
(中略)
人間は弱い存在だ。いつ難病にかかるか分からない。交通事故に遭って、生活が一変しまうことだってある。日常の中には、様々なリスクが潜んでいる。
人間は普遍的に有限で、脆弱な存在だ。そんな大前提を忘れ、自己の現在を特権化した過信こそが、命の選別論である。
私たちが皆、赤子だったことを忘却している。お腹がすけば泣くことしかなかった自己の無力を忘れている。確かに支えられ、助けられなければ、今の私は存在しない。この存在の根源的弱さに向き合えることが、本質的な強さである。
医療崩壊という極限状態においては、治療可能性などの医師の所見をもとに判断するしかない。状況は具体的かつ千差万別であり、絶対的な「正解」など存在しない。
この例外状況を日常に敷衍(ふえん)し、命に「値札」をつける行為は断じて許されない。命の尊厳のあり方が問われている。(なかじまたけし=東京工業大教授)』
この記事を読んで、以下のように思った。
私は70歳になる前期高齢者で、且つ、車の運転もできなくなった障害者である。体力には自信があった時もあるが今は無いので、自分の役割を見つけて粛々と生きていくだけである。ただ、サムエル・ウルマンの“青春の詩”ではないが、「理想を失う時に初めて老いがくる」と思う。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) サムエル・ウルマン“青春の詩“
青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か
曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大
そして、偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる
人間が万能では無いということを考慮した場合、一応考えるべきことではあるはずです。