先日(令和2年9月6日)、チョマトーで “第47回チョマトー慰霊祭”が開かれ参加しました。帯広アイヌ協会の会長及び帯広市長の挨拶に続いて、イチャルパ・カムイノミという慰霊祭や「帯広カムイトウウポポの会」による伝統舞踊奉納が行なわれ、意義のあるイベントでした。
約65年前、帯広駅から約3キロのチョマトー近くに住んでいたので、この沼には時々遊びに出かけました。当時のチョマトーは、今の水量の50倍もある大きな沼で、水面をジュンサイが覆いオニヤンマトンボやシオカラトンボ、アゲハチョウなどが無数に飛びかい、虫取り網で必死に追いかけた思い出があります。
フナやゲンゴロウもたくさん泳いでいました。ある日の朝、フナ釣りに出かけたら、数多くの魚が白い腹を見せて死んでいました。その時は分かりませんでしたが、きっと農薬が流れ込んだのだろうと思います。
昭和32年(1957年)ごろのことで、ちょうどその頃は日本の高度経済成長の始まりであり、公害の始まりでもありました。すでに65年余りが過ぎましたが、昔、ヤチボウズが群生していた沼の周辺には住宅が建ち並び、昔の面影は全くありません。周りの住人からは蚊の繁殖するドブ沼として嫌がられているそうで、時代の流れとは言え大変寂しい思いがしました。
十勝のまち作りや地域づくりを共に考える時、「人間と自然との共生」を基本に据えて、“100年後の十勝はこのようにあるべきだ“と思い描いて取り組むことが必要だと考えます。
テーマをアイヌに戻します。アイヌ民族は北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部に住んでいる先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指しているようです。アイヌ民族がいつから北海道に住み始めたことについては諸説があり定かではありませんが、13~14世紀頃に、所謂、アイヌ「文化」が生まれたといわれています。
西暦801年、桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷征討(えみしせいとう)を行なった史実もありますが、この頃の北海道はあまり知られていなく、「エミシ」(“荒ぶる人”の意)は、現在の東北地方を中心に広い範囲にいた人たちを指していました。
しかし、明治時代になってからアイヌ民族は、北海道に追いやられて、生活の糧である狩猟やサケ漁も制限されました。加えて、日本語も強要され、やせた土地に強制移住させられるなど多くの抑圧、差別を受けた過酷な歴史があったことを忘れてはならないと思います。
持続可能な地球を作るために、「自然との共生」というエコロジカルな生活を営んだというアイヌ民族の精神文化を、今一度考えたいと思います。アイヌ語圏は東北一体にも及んでいましたが、母方の両親は青森県と岩手県生まれなので、私にもアイヌの血が流れている可能性は高いと思います。
世界の歴史を見ると、文化が栄えたところには必ず文字がありました。その理由は、文字があれば意思、文化が伝わり易かったからでしょう。アイヌ民族が文字を持たなかったのはなぜでしょうか。
文化が未成熟ということだけでなく、自然のなかで言葉、口承により何の不自由もなく生活しており、必要なかったのではないでしょうか。地球温暖化の影響等々を目の当たりにする中で、「人間と自然との共生」を真剣に考えねばならない時だと思います。
「十勝の活性化を考える会」会長
注1)チョマトー
チョマトーは、北海道帯広市西15条北2丁目にある沼である。アイヌ民族の聖地とされる。語源はアイヌ語の「チ・ホマ・ト ci-homa-to(我々・忌み嫌う・沼)」で、沼の名前の成立に関する伝説が残されている。
1800年頃(あるいはそれ以前)に北見アイヌ(一説には日高アイヌ。以下同じ)が宝物や美女を獲得すべく十勝アイヌのコタンを攻撃した。当初は劣勢に立たされていた十勝アイヌが神に祈りを捧げると状況は変わり、北見アイヌはチョマトに退避する。北見アイヌはそこで水鳥を捕獲して空腹を満たしていると、十勝アイヌに包囲されており、逃げ場を失った北見アイヌは沼に飛び込んだ。
沼が赤く見えるのはその時の戦士達の血が多く流れたからだという。そのため『血で染まった沼チョマトー』とも云われ、漢字では「血妖魔沼」と表記し、「血妖魔沼戦没者慰霊碑」が建っている。
従来から水質汚濁等による蚊の発生や隣接する市道が大きく湾曲していること等から隣接市道の直線化が議論されていたが、近年議論が再燃し市道の直線化議論が起こり一部住民の反対もある中、沼の一部埋立を含む工事が2004年5月に開始された。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
注2)蝦夷(エミシ)
古代,日本の北辺,実際には中部以東,北陸,関東,奥羽地方に住む人々は,大和朝廷より,蝦夷という名で異民族扱いされていた。蝦夷はまたエミシとも読む。
彼らがいかなる人種,民族であったかは,江戸時代以後多くの史学者によって論じられてきたが,決め手がなく,一方,人類学者もこの解明を手がけたが,人骨などの実証拠が乏しかった。
新井白石や本居宣長は蝦夷すなわちアイヌ説をとった。長谷部言人ら人類学者は石器時代人骨の研究から,非アイヌ説をとり,日本人でも東国,北辺に住む化外 (けがい) の民を蝦夷と称したとしている。
金田一京助は奥羽地方に残る地名をアイヌ語で解釈できるものとして,奥羽地方にいた蝦夷はアイヌであると考えるが,考古学的資料からはにわかに説明しがたく,また,東北地方出土人骨のうち,アイヌであると思われるものはごく少い。
しかし,古代,中世においても,蝦夷地,特に北海道の蝦夷は,アイヌであったとみられる。近世以降、蝦夷はアイヌと同一視されている。蝦夷という概念はこのように時代とともに変ってきている。
(出典: ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
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